CRのある風景 3と4

承前:http://d.hatena.ne.jp/y2k000/20091025#p1

 例えば、世界最先鋭が日本の田舎に集まることを一昔前は考えられただろうか?
 物流コストがかさむため主たる産業がないため人口が少ないため、様々なインフラのならし負担が大きく、総額も小さいため、抜本的な改革が進まないそんな田舎に。
 「どうしてだ」と未だに問いかける者も多い。謎解きのような書籍があちこちで発行されている。恐らく日本でもっとも大きく、世界を変えたIT事業だからだろう。去年のビジネス書の国内ベストセラーのトップ100のうち、「Mater社」を扱ったものは15あり、「高田正二」を扱ったものは20ある。この手の、いわば「価値」のおこぼれのような産業は、そこここにある。
 私もその産業の一員で、だから今、彼に会っている。オピニオン誌のインタビュアーとして面会した私は執務室に向かった。副業商業施設「OoE」の第一ビル4Fのオフィスフロアの最奥だ。ロビーチェアに座って待たされる間、ちょうど向かいの窓からは山に建てられた建築物ならではの情景を楽しめるようになっていた。窓の近くに立って見える景色は、ちょうど夕暮れで、西日を浴びる海を真っ正面に捉えていた。きらきらと浮かぶ海原に影になった島々がぽつぽつと浮かび、素晴らしい眺望だ。
 あの中には、Mater社が投資している養殖業の海洋畑もあるだろう。山奥に展開される、湧水を使った小型魚の育成と、この地方で昔から取り組まれてきたマグロの養殖を中核に据えた複数のブランドの発展にもMater社は寄与している。
 そこで、受付の女性がやってきて、展望グラスを持ってきた。なんとも人好きのする笑顔を携えた彼女が、「よろしければ後ろの景色もごらんください」と案内してくれたので、好意に甘えることにした。
 転じて川が見える。河口から続くロードとテラスは、近年、都市開発として再注目されているビオトープを利用して作られたエクステリアだ。ロードやテラスなどには、木材が多く使われているのだそうだ。
 山が多いこの地方ならではの心得で、代謝の衰えた生後50-60年の老木を伐採して、代わりに若木を殖財することでCO2削減に寄与しているのだという。植えられる木も最近は工夫がされているそうだ。UCUをはじめ、植物の遺伝子研究機関などに積極的な出資をすることで水保ちの良い根を張りながら、木材としても活用できるようになったのだということだ。
 そのようなことを聞くと、Mater社の理念が思い出される。様々な場面でしばしば引用されるが、Mater社は自分たちが造り出したものの社会的な意義の達成をまず考えるという。それというのもコンセプトを作り出したものには責任があるからだと考えているからだ。新しいものが作られたとき、それはどんな場面を想定されているのか、どういう痛みや楽しみがあり、どんなところに馴染み、いつまで根ざすのか。
 その主たる実践がここ、Mater社が本社を置くネオパークである田宮市であり、今や提携都市群のフラッグラインとして様々な試みを実施しているのだった。(無論、市場を寡占する企業による実験場、おもちゃと化しているという批判もあるが)
 これを巨人の論理であると解くものもいる。それまでのデマケーションを破壊し、新しいデマケーションを造り出す行為を指して、我々は巨人が動き回る所を見上げている最中なのかもしれない、と呟いた経済学者もいることは現代における一個の象徴的な出来事ではないだろうか。
 望遠グラスの倍率をあげると、釣り人とコーヒーを楽しむ老人、ロードでトレーニングする何かのスポーツ選手が一つのフレームに収まった。その光景があまりに自然に溶け込んでいて、私自身もその場にいるような気分になった瞬間、
「エクサテリアル、OFF」
 その言葉ですべてが終わりを告げた。グラス越しの景色がすべて消失して、目の前が単一な色調の壁となり、現実を失ったように動転した私はとっさにグラスから顔を外し、
「どうでしょう? 実に自然でしたでしょう?」
 溶けた現実の中で、振り返ると、そこには巨人がいたのだ。
 比喩ではない。中肉中背だが、実際の身体より何倍も大きく見える錯覚を覚えた。今し方まで除いていた望遠グラスの影響かも知れない。CRがしばしば起こす現実との乖離による脳の混乱かも。
「すべてCR上の展開したものです」
 高田正二がそう言ったからにはウソではあるまい、と思った。

 4

「3D映画がありますでしょう。あれが好きでね。似たようなことができないかって考えていたんです
 開口一番、彼はそう言った。あの後、執務室に招かれて名刺を差し出した彼は、紙に印刷されたMTコードにレンズを合わせて、セミカラーの単線を組み合わせて造られたシンボルに封入された私の来歴を眺めると、一瞬、考える素振りを見せてから「見せたいものがある」といった。
 これは来たな、と私は思わず笑い出しそうになってしまった。噂が本当だったことを実感できた喜びでもある。高田正二はしばしばゲストにその時、自分が行っている新しい試みを見せたがるのだ。「高田のサプライズ」と言われるものへの期待を胸にして、飛び出すように部屋を出た彼についていくと、そこは「OoE」第三ビルのB1Fだった。開店前のクラブがあり、入り口で清掃していた店員に声をかける。そこで施設内のIDを丁寧に提示する姿が印象に残った。知られている通り、Mater社は「OoE」のテナントをほぼすべて統括している。厳密にいえば、集客広告の役割を担う一部のブランド店舗を除いた、直営店や独立店の育成に積極的に手を貸しており、コンサルや顧問も兼ねているということだが。
 ちなみに、その事業を営んでいるのは、Mater社の別会社にあたる「TAU社」で、TAU社が手がけて最も有名なのは、やはり第一ビルのフードコートだろうか。「OoE」ではフードコート全体で一つの空間、ホールスタッフ、機器を共有する。
 無論、個性の強い内装を重視した個別店舗ごとのパーティションスペースがあるが、これは例えば、居酒屋などは公共上の問題からも切り分けられるべきだという都合もある。基本的に集客強度が高く、メインとなるのは屋内外のフードコートだ。フードコートでは、施設内の全店舗の注文が可能となっている。例えば、従来ならば、カレーとラーメンを食べたい客は、カレーかラーメンかを選ぶか、カレーとラーメンを扱っている店に行くしかなかったが、ここではそうではない。
 カレー専門店の料理もラーメン専門店の料理も同時に注文することができて、同じ場所で食べることができるのだ。
 これは、CRが空間表示するメニュープログラムに支えられており、「OoE」が内的に展開するCRドメイン上にある「フードコート」ページは、ユーザ登録さえしていれば、自在に編集できる。コンテンツ内にはレビューサイトや個人のお気に入りメニューの登録もでき、かつて注文したものからのサジェスト、ジャンル別の検索、「辛いもの」「甘い物」など適当な単語を入れて探すフィーリング検索を搭載しており、店舗によっては、実際の調理画面を配信していたりする。
 これにより、ホールスタッフは注文取りに広いスペースをいちいち歩き回る必要はなくなり、過度のコミュニケーションサービスやクレーム処理の円滑化などをメリットがあるとして高く評価されて、これを知財登録したTAU社は、このバリアントモデル*1をセルフ化を推し進めたい世界中のフードコートなどにC&Pコンテンツ*2として売り出していたりする。ただ、現在の「OoE」はサービスの質を高めており、無人ではなく、それぞれサービスマンを用意している。
 また、独立店舗は自前の責任で雇う常駐のスタッフとは別に、フードコートからスタッフを借り入れすることができるようになっている。共通のモジュールを利用した注文システムと機器はそのためのもので、ホールスタッフはどの店舗に行っても、CRのタブ切り替えと併用することで、違う店舗の注文処理も自在に行うことができる。これにより、一店舗あたりの繁忙時と閑散時での人件費を落差をならすことができ、接客業という個別的ながらその実、共通的な業務をモジュール化することでコスト削減を可能としたのだ。(このフォローのためにテナント側には契約書レベルでの縛りが色々あるらしいが、金はないがチャンスが欲しい独立店としては非常に有意義であり、テナントの資金繰り面での脱落が低いと言われている)
 ここまでは一般のバリアントモデルでも適用されているところだ。「OoE」で提供されているサービスはさらに優れており、例えば、ラーメンとカレーに使われている食材についてのアレルギーについて問い合わせができ、また商品の摂取カロリーを調べることもできる。また地産地消を推進し、ファーマーズマートを用意するなど地元の農家と強く結びつく「OoE」では食品の追跡調査も可能となっている。CRドメインのユーザページにそれぞれの情報を登録しておけば、例えば、とある客が肉嫌いだとして、次回から「にんにくラーメン」をクリックすれば、特に指定がない限り、「にんにくラーメン チャーシュ抜き」が言わずとも出てくるわけである。
 さらにこうしたありきたりのプログラム応答のさらなる上位として、有料会員やバリュー企業と呼ばれる田宮市在住でMater社と協業関係にあるすべての会社の関係者やUCU田宮分校の学生ともなれば、常駐する栄養士やカウンセラーによるカロリーコーチングやストレスサポートも格安で受けられるし、さらに3Fにあるフィットネス施設とも連動して、専用アプリがあれば、消費カロリーと摂取カロリーを比較したり、中長期のダイエットプログラムを組むことできる。
 近隣病院もほとんどがMater社と提携しており、本人の承諾があれば、行動や体重、血圧などをレコーディングして、個々の診察材料として使うこともできる。こうしたハイエンドの複合サービスを提供するということは田宮市という共同体を一個の企業がおもちゃにしてもあまりある功績だといえる気がする。
 ちなみにの話が長くなった。 
 さて、コンクリの打ちっ放しがむき出しで寒々とした開店前のクラブの中で、適当なテーブル席に腰掛けた私たちは、気を利かせた店員が出してくれたコーヒーをすすっていた。
「3D映画ですか」
「テレビでも見られますけどね。やっぱり3Dは映画館で見るのが好きだ」
「そういえば、あなたは昔の映画の3Dリファインも手がけてらっしゃいますね」
 Mater社はAV事業として、古い映画を3D化して「OoE」系列のシネコンに配信していたりする。傑作だが、あまり国内では興行的に振るわなかった作品を好んでリファインし、一斉オールナイト上映するなど、多分、目の前の男自身の趣味からくるユニークな企画は、好事家から絶賛と批判の双方の声を受けている。私自身は金持ちはそういうバカをやってナンボだろうと思うのでとても肯定的だ。パトロン自身が表現者であるということも高田正二という人物をユニークに仕立てていると思うのだ。
 実際、嬉しそうに身を乗り出した彼は、
「そう。過去の名作を文字通り、蘇らせる。当時、見た人がこれまで見たことがなかった作品の喜びをもう一度、与える」
 とても活き活きとそんな話を言い始めた。せっかくの高説だから、このまま拝聴してもよかったが、アポイントメントの時間は限られている。彼には時間があるが、私には時間がない。そんなわけで、早々と遮らせてもらい、
「それが先ほどのいたずらに関わりがある?」
「ああ、先ほどは失礼しました」と若き巨人が小さく頭を下げたので、慌てて首を振る。「いえ、そんな謝られる程では。確かにびっくりしましたけど」
「貴方があんなに驚くとは思わなかったもので、しかし、効果はよく分かりました」
「効果?」
「CRの新プロジェクトです。アイール、フォロバレーに続く」
 自らざっくばらんに言ったので耳を疑った。これはスクープだ。
「えっと、その、記事にしていいんですか?」
「ええ、構いません」
 ――しかし、その前に、といって、手を振った。壮年の男と若い女性が現れた。
「紹介しましょう。今、その第一弾として実験を手伝っていただいている方々です。コンポーザーの大場さん、ビジュアルジョッキーの若宮さん、こちら雑誌ライターの志村さんです」
 お互いに挨拶すると、高田氏は「ではよろしくお願いしますね」と言い、二人の男女はまた下がった、
「クラブにVJは分かりますが、コンポーザーとは?」
「CR上で反映されるデータを生成するプロですよ。まだ実験段階でね。人の手を介して行わないと難しいんです」
「申し訳ないが、全然分からない」
 ――見れば分かります。
 その瞬間、照明が落ちた。
「先ほどの風景ですが、CR上のプログラムですが現実の光景でもあります。施設の屋外に取り付けたカメラで取得したロケーションデータを補正したもので、その時、特定のビューワが置かれた環境、情況から類推して、もっとも心理的に安心を与える画面を提示するのです」
 そして、何もないはずの空間から音楽が流れ出し、光が漏れ出して、私の目の前に現れ、
 多分、私はその時、神を見たのかもしれない。すべてが停止し、私の生理一切が停止し、時間も空間も、流れもなくなり、ただ私だけがいるという錯覚が転倒し、深い酩酊とともに
「あなたについて存在するCR上にあるパブリックデータと名刺に含まれる来歴を解析させました。そして、あなた自身を想起させるイメージが今、目にしている風景です」
 現れたのは、光だが、それは私自身の姿であり、聞こえる音楽は私自身の声であり、私自身が神となったような全能のカタルシスがあり、私は私の中に消失して、
「プロジェクト:イマーゴリ、その要となるものです」
 その声とともに意識を失うのだ。

*1:コンセプト派生商品の俗称、コンテンツをそのまま売るのではなくクライアントの情況に対してコンセプトをゆがめずに逐次、修正変更しているため、こう呼ばれる。かつてデリバティブとも呼ばれていたが金融商品のそれと混同することが甚だしく、近年ではサービス商品について呼ばれることも多い

*2:Concierge&Planningコンテンツの略、各種コンサルや専門家、プランナーが集まるTAU社は提案したコンセプトを企画し、ワンストップで顧客とともに参画していく様態をこう呼んでいる

 「涼宮ハルヒの消失」予告編の眺め方。

 12/18に公開された「涼宮ハルヒの消失」の予告編の出来が一個の物語としてあまりにも完成度が高くて、興奮しまくったので、時間毎にどのように眺めたか解説をTwitterで走り書きとしたので、こっちでまとめる。
 発端はここら辺から→http://twitter.com/y2k000/status/6820821795
 予告編はこっちから→http://www.kyotoanimation.co.jp/haruhi/movie/trailer.html
 ちなみに、原作は読んでいない。



0:03/キョンがマフラーを巻くシーンから始まる。そそくさとマフラーを巻いて帰り支度をする彼に対して、まったく無関係に教室内で駄弁ったりするクラスメイトたち。放課後直後の弛緩した空気のなか、ジャケットを身につけてマフラーを手にして一人、外へと赴こうとするキョン。その「表情」は窺い知れないが、外の景色にあわせるように灰色がかった画面の色調と気持ち丸めたように見える背中が彼の孤独を暗示しており、マフラーに首がかかった瞬間、テロップが入り転調。それからやっとマフラーが巻かれる。


0:10/首に巻いたマフラーを身につけて、一人横断歩道を渡ろうとするキョン。画面の両端を渡る橋として機能する横断歩道を歩いた中間点で、
0:13/彼の孤独を補うように友人達と連れ立って歩くシーンが現れる。ひょうげた友人に対して、寒そうに首をうずめて、ポケットに手を突っ込んだキョン。ここが彼のいる「日常」である。


0:14/しかし、この次には早速、「不在」の席が画面に現れる。この「不在」は彼のもつ「日常」が欠如していることを意味している。キョンの振り返りは「過去/経験」が失われていることを暗示している。同時に、TVシリーズを知るものならば、これが涼宮ハルヒという作品を構成するのに不可欠な要素にして前提=「もうひとつの日常」が失われていることだと気づく。


0:19/キョンの振り返りが「過去/経験の消失」を匂わせており、これを受ける「私はあなたに会ったことがある」というテロップが流れる。これは本来の「過去/経験」とは異なる「過去/経験」へと導くミステリ的なミスリードの構造だろう。
0:20/その証拠が現れる。TVシリーズを知っていることが前提となるが、あまりにも異なる彼女の「表情」。異質さはなおも続き、
0:23/みくるの手を両手でひっしと握るキョンの図。彼女の「表情」もまた、異質なものだ。この、拒絶の「顔」の横では、彼女の友人である鶴屋がいる。しかし、彼女の「表情」はカメラから見切れていて、分からないのだ。キョンのフォーカスからは、差し迫っている事態において、鶴屋は「外部」なのである。であるから、
0:25/それまでみくるの手を握っていたキョンの手を外し、彼をいなす彼女の表情もまたカメラの位置により、はっきりとは分からない。
 このくだりは、シナリオ上、しばしば序盤の終わり辺りで欠かすことができないものとして要請されるものに相当する。すなわち、主人公から「日常」から違和感に気づいて、異界へと向かうのだが、そこで一度、拒否される、障害に阻まれるといったくだりだ。


0:26/これまで灰色がかった思い色調が続いたフィルムに、はっとするような赤のコートを身につける少女が現れる。なまめかしく近づいてくる少女には、しかし「表情」がない。続くカットでも「顔」が与えられていないことが作為的に示されている。
 これは、直近のくだりで、カメラの位置的に、「自然と見切れていた、はっきりとしなかった」ともいえる鶴屋との大きな違いである。TVシリーズを知るものならば、この朝倉という人物が回帰したことを理解するだろうし、本来いるべきはずのハルヒの「不在」と本来いないはずの彼女の「存在」は、対比的である。
 このことは、本来のハルヒの席(=TVシリーズでおなじみのキョンの席の後ろ)が誰か男子生徒に埋められていて、朝倉がそこにかぶさるように動くことで強化される。ここで彼女の簒奪者としての姿が密かに強調されているのだ。
 また、この朝倉の不気味さ、アンビバレンツさは、灰色の中の赤、徹底して「外部」を意味しながら「不在」を埋めうる存在として現れることに由来する。TVシリーズを知っていれば、無論、彼女は本来の不在の主ではないことが分かっているため、彼女は敵対存在であるだろうと類推できるし、窓に対して背中を押しつけるようにしているキョンの姿が、彼女の属性を際だたせている。


0:29/電車が走ることを背景にして、キョンもまた走る。寒さから身を守るため、首をうずめたマフラーは外されており、ジャケットの前も開かれている。このアクションの背景にある電車とは「レール」の上を走るものである。キョンが走るというアクションと、「レール」というモチーフは、しばらく後のシーンへと引き継がれ、ほぼ同時に展開される。


0:31/顔をあからめた長門とぼへっとした顔のキョン。背景のモミの木が位置的に近しいところにあることをはっきりと示しているのに関わらず、お互い向き合っているのに関わらず、彼らの顔はそれぞれ別のカットとして扱われている。長門はうつむいており、二人の視線は合わない。二人は事実上、断絶しているように思える。


0:33/再びマフラーを身につけたキョン。つらそうな顔は彼の挫折を意味しているのだろう。
0:34/だが、その次のカットでは引き締まった何事かを決意したかのような表情をしている。挫折から回復して、共に立つのは未来のみくるである。彼らが同じカットに収まっていて、かつ、同じ方向を向いていることが二人は協力関係にあることを示している。未来のみくるはうつむいているが、これは0:31で長門のうつむいて視線があわないことの対照であろう。


0:35/座って明らかに舞台を解説する役周りの小泉。彼の描いた図は、先の「レール」のモチーフを思わせる、移行した平行線である。小泉の役割と、電車を背景にしたアクションと、これに続くキョンのアクションから、この「ズレた線」がこの物語の主題であることがはっきり分かる。
0:36/かくして、主題が明らかになった直後、銃を構えるキョン。テーマがはっきりした以上、闘争になるのは必然的である。
0:37/そして、闘争の結果、キョンは軽くない損傷を受ける。その視線が受けるのは、
0:38/「顔」に血を浴びて動じる長門である。ちなみにこれは、TVシリーズにおいて、多大なダメージを受けて血まみれになっても動じない長門の、対照だろう。位置関係で考えても、TVシリーズでは、闘争する=前面に立つのが長門、後ろにいるのがキョンだったのに対して、ここでは、キョンが前にいて、後ろに長門が控えていたのだろうことが対照の強調となっている。

0:39/窓から吹っ飛ばされるキョン。窓から吹っ飛ばされるには当然、窓際にいなければならない。窓際のくだりは、朝倉の登場シーンにあるので、そこを受けたくだりだろう。また、彼の周りで飛び散るのはクリスマス意匠のプレゼントである。先の長門のくだりでモミの木があったことを受けて、劇中の時節がクリスマスであることがここではっきり分かる。

0:41/「不在」のはずの彼女がそこにいる。だが、彼女の「顔」が分からない。もっとも、TVシリーズを知っていれば、彼女の髪型が物語の決着を示唆してはいるのだが。
0:42/決着を意味する彼女の髪型の後で、差し込まれる「READY?」の文字。二転三転して結局、ここでは物語は決着しないわけである。そして、タイトルが高らかに掲げられる。ここはまるで、「涼宮ハルヒシリーズ」としばしば比較して語られる「ビューティフルドリーマー」を思わせる。

 以上で、予告編という機能を十全に果たしつつ、この物語は閉じるわけである。

Twitter改めてはじめました。

 元々はずいぶん前からIDだけ取得して、ちょっと遊んで飽きたが、最近、また始めましたという話。
 まあ、なんだかんだで書きやすいわけですよ。はてなブックマークの100文字ルールと似ていて、140文字で切れるから書くことの閾値も低くなるし、思考を一回一回切りつつ、そのまま続けて語れる利便性。気楽でよいよい。
 blogも書体、文章、スタイルもろもろ相当崩れているが、そこはなんというか、古き良きテキストサイトのかほりが残っており、「無断リンク禁止」論争とか「イヤなら見なきゃいいのに。インターネッツは自由ですよ(キリッ」論争とかあったわけじゃないですか。
 Twitterにおいては、その延長で語ることはなくなるのかも知れない。まあ、「イヤならみなけりゃえーんでないの?」問題は残りそうな気がしますが、無断フォロー禁止だなんだはさすがにないだろう。実際、あるの?
 そういえばmixiでは逆に、「なんで足跡残すのに、リンクしてくれないの?」とかいうキモチワルイ空気があった時期を思い出す。多分、実名由来の濃度が高いほど繋がっていたい傾向があるのかもしれない。
 
 ちなみに自分のblogとTwitterの方針は、
blog=ほぼフィクションオンリー、たまに長い文章まとめて書くよ。リアル話はほとんどオミット。夢こそ真なり。
Twitter=ノンフィクションとか生活に寄り添いつつ、その時々で思い出したことと思いついたことを走り書き。そこから広がる話をこぼしたくないっすよねー。

ところで、この情況では、blogの方が分が悪いやな。みんな不安なんだもん。政経はボロボロ。若者ファックな世の中じゃ、ポイズン。
こういう時は繋がってたいし、寄せ合いたくなる。そこから集まってなんかしよーぜってなればいいのになーとか思ったり。
なにも具体的なアクションが起きず、blogと同じでこの場合、フォロー数の多い強者にぶらさがってたいだけ、とか、身内でワッショイみたいなんばっかじゃ意味ないと思ったりしますけどね。
しかし、そうしていたい心理はよく分かる。安心がもはやはっきり脅かされる時代になったのだよなー、とか。





 

 「landreaall」(おがきちか) 15巻を読む。

変わらず面白い。
特にこの巻はストーリィ全体の大きなフックなので、なおさらなのかも知れない。(いくつかそういう描写が増えてきた。後述。
さらっと書評系ブログを眺めて気になった箇所。
ランドリオールと言えば、id:kaienさんとid:Gaius_Petroniusさんとこの書評が色々まとまって書いているのだけど、実際の所、彼らの書評にはいまひとつノレないのである。特にランドリオール絡みは毎回、砂を噛んだような気分になる。*1
これは「ランドリオール」がどういう物語であるのか、という視座の違いでしかないのだけど、彼らは主人公DXがいかに王たり得るのかを描くストーリーだと考えている一方、「こんな主人公がいたらなー」という素朴な願望を公言しているのだ。そのなかで「自分ならどのように振る舞うのか」という思考実験をやっている。そして、それをもって、読者が眺める現実についても語りかけている。
彼らの言説は常々まったく正しいし、「優等生的、啓蒙的だなー」とか思いながら、「だが、知るかボケ。アバヨ、オレはオレの道しか行かねーぜ」と本来批判もする義理もなかったのだけど、ランドリオール15巻を読んでいて、非常に決定的なコマが露わになり、そこでid:kaien氏とid:Gaius_Petroniussi氏がまたぞろ「やれ王様の器だー」とか言い出すのをふんふんと大勢が納得させられるだろうことが読みながら頭にふつふつ浮かんできて、「ふざっけんなボケ、オレの読書をすかさずメタにもってってんじゃねーよ、ボケ」と全然まったくこれっぽちもガマンならんかったので、今書いてる。うわー、ちょう言いがかりんぐ。正直、すまんかった。
さて、彼らの消費する「ランドリオール」とは、現実の思想にまで敷衍しうる一種のRPGなのだ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091128/p1#c参照。このように振る舞えたらかっこいいよなー、あこがれるよな−、痺れるよなー、良し、そうするにはどうすればいいか分析してお手本にしちゃおう、そういうものだ。
こうすることで、フィクションが現実に耐える強度を保つというのは素晴らしいことであるのだし、それは評論としても一定の評価をされるべきことなのだが、じゃあ、そこで取りこぼしたことってなんだろうね、という話。



以下、ネタバレ







「君は報われる幸せを知らない」
このフレーズは実際、多義的だ。http://d.hatena.ne.jp/kaien/20091129/p1(参照)
この巻はこのセリフのために色々種を蒔いていたといってもいい。
が、とりあえず先に、DXのこれまでの行為について振り返ると、
「惚れた女のために、おっかないドラゴンを倒した。でも、DXは、はなっから王子様とお姫様は一緒に暮らしましたとさ、ちゃんちゃん、とはならないことを知っていたのだ!」
「階級社会のガッコに放り込まれました。そこのところでは、竜をしばいた高位貴族の嫡男であるDXはビッグルーキーだが、根は傭兵なので、下々の人々と自覚的に分け隔て無く接している。つか、貴族的お高いのはピンとこないでござる」
「その下々の者のうちのダチが本来、階級的には得難い職種に向かう研修をアシストしたり。バレると、かなりまずい。階級社会的にはめちゃくちゃまずい」
「本来、命を賭ける必要のない職人の息子を救うため、致死性の呪いを受ける」
「ダチの家族問題に首突っ込んで、死にかける」
やー、ヤバイですよね。彼。客観的に王様の器じゃない。すぐ死にそう。人一人の命は国より重いとか考えてそうって言われてそう。
でも、作中だとあなたは王の可能性を秘めているんじゃねーの? と周囲からは漏れ聞こえている。
さて、どうして?

作中、何度も理解できなくて首を捻るのは、この階級社会のあり方なのである。
あえて言えば、ヌルい。
王城で生きている貴族連中と学園連中の温度差にビビるというか。
出てくる貴族連中はガチガチの階級主義者が多そうだ。目的のためなら、賤民など死ね、場合によっては貴族すら死ね。というスタンス。
で、一方、学園内でののほほんやってる彼らの息子娘。
慎重に区分けされているわけでもなさそうだし。
考えられるのは、DXと妹イオンに集まってくる連中はリベラルが自然と集まってきたという感じだろうか。それで作中のフォーカスから保守派が外されているんじゃないか。
そういえば、序盤出てたとっぽい貴族のお坊ちゃんとかもう出なくなったしね。
ここで重要なのは、DXのスタンスがいわば「やりたいことしかやらない」ように写ることだ。
15巻において、前王の密命により、「かつて起こった戦争の中立地帯が混乱して壊滅した」とある。さて、これを指して、DXの父と、次代の王を選定する貴族はあからさまにこの王を非難する。
しかし、読者からすると、「狂った王様」というのは、リベラルに立つ側の主張にすぎない。実際、王は何を考えて実施したのか? そのエピソード的補強がないため、よく分からない。(これから過去編に入るので、説明が為されるのだろうが)
そうだとすると、DXも前王とは、程度の違いこそあれ五十歩百歩であるといえる。
例えば、極端な話、「探検していた友人が見つからない。オレが現地に行こう」と言い出すのかもしれない。で、せき止められて、周囲からなだめられて、国軍が動く、とか。で、それでもガマンできず飛び出してしまう、とか。
王には二つの身体があり、政治と王個人の生命は本来、不可分のものだが、この場合、DXはそれを超えてしまっている。彼は権力(とその責務)と不可分ではなく、彼の身体とは、もはや権力と接しない。これは近代民主主義の骨子でもある。
つまり、彼が自由であるためには王権を得ることを失わなければならない。が、彼はその時々で権力とすでに結びついてしまっている。
このジレンマにあるのが、今現在の「ランドリオール」であり、決して王たりえるのかを計られ続けているのではない。それは一方からの見方でしかない。
彼が単なる一個の「自由意志体」であるか王の政治的身体を受肉するのかが問われている物語なのだ。

その証左が、例の「君は報われない幸せを知らない」だ。
あのシーンは、過去の一切のシーンより先に、同ページにある「ブドウ」と結びつくのであると着目するべきだろう。
ここはDXにつきまとった持続する不幸の解消ポイントでもある。
DXは幼き頃、槍熊と呼ばれる野生動物との親交を得る。しかし、その幸せは崩れ去り、親交のあった動物とそれを狩りにやってきた人間を殺してしまう。
ここで彼には一個の試練が突きつけられる。死んだモノを食せよ、食すことで死んだ個体との一体化を意味する儀式となる。さもなくば群れより追放するぞ、と
結果的に彼は食さず、群れから追放される。
だが、彼は儀式を再構築しなおすことにする。つまり、それが「ブドウ」だ。死体を埋めた場所にブドウを埋めて、果実を食す。
ここで象徴的なのは、言うまでもなく、果実とは智恵なのだ。DXが智恵を振り絞っただろうこの解決方法には、しかし、このとき、了承が降りない。人間と動物との分かちがたき現実がここで現れる。
そして、彼は毎年必ずここに現れて、ブドウを食すことになる。それが報われない幸せであるとして。
それから数年後、彼には許しが与えられ、群れへの回帰が認められる。
なぜなら、この条件には槍熊の言うところの「人間=同族の群れ」を形成したことに由来するからだ。
ここで重要なのは、その直接の同族に、「貴族」が含まれてはいないことだろうか。
商人、職人、異国からの訪問者、影仕え。槍熊という名の自然。
一方で、王国内の仕組みとして王になるには、「玉階」に認められる必要が在るのに、「貴族」であるモノが誰もいないのが非常に興味深く、まだこの作品も道半ば。DXたちがどうなるのか楽しみにしたい。

*1:それでも読むんだ、というツッコミはさておけ。対義的なモノは学ぶべきなのだ

 色々と楽しんだ。

 レンタルで観て即、Blu-ray買い。つまり、大満足。
 正しくジェットコースターでティーンなムービーであり、大変楽しい映画。僕の基準の中ではアイアンマン系というべきか。ポップでロックなノリ、制作者が舌出しながら造ってそうなところとか。
 しかし、アイアンマンでは、スターク×ポッツでメロっぽく速度を落としたのが、カーク×スポックの対比でテンポが落ちないのも大変グッド。
 アイアンマンも悪いとは言わないのですが、終盤のくだりはヒロインの絡め方がテンプレート的で無理矢理感が否めず、ポッツにはかなり不利な流れだった。
 余談だが、スパイダーマンはまだ正体に絡めたりとか、三角関係にもつれこんだりして価値を出そうとしたが、ともあれヒーロー物での非力なヒロインのクライマックスでの価値の無さというのは非常に工夫のいるところなんだろうなとは思う。
 この「スタートレック」では「ヒロイン? ヤングスポックのことじゃん。彼ってツンデレだろ?」と男の友情でホモソーシャル的な欲求を満たしつつ、裏では腐女子回路を働かせる流れを保っており、実にそつがない。
 ストーリーですが、実は前情報を一切入れずに見たため、プロローグで恐ろしい方向に舵を切ったことに終始、驚きっぱなし。こんな無茶苦茶ことになるとは・・・
 本国のオールドファンとか偉いことになってるんじゃないかと思って後日調べたら、むしろ出演者であるウィリアム・シャトナー本人が「オレを出さないとかふざけんなボケ!」とマジギレしてたらしく、大爆笑。 
 以降、ニュージェネレーションってのはこうでなくっちゃとノリノリで観た。
ヤングカークともなれば、愛嬌があるし、悪ガキで大層やんちゃだけど、仲間には愛されるよね。というのが、非常にメリケン臭くて良い。少年時代のクソガキっぷりが非常にロックンロールで、こいつはほんとに愛すべきバカだなとほほえましく思いました。

ハードカバー出た時に読んでなかったので。
なんというか、津原泰水ってこんな作風だったっけ? というのが第一印象。
後半のイヤ展開にはさすがやすみん、鬼の子よのう、と感心しましたが総じて真っ当な内容で拍子抜けした、というとなんだか失礼ですが、所々にほとばしるイヤな予感には、さすがすぎるとは思いました。
ところで、貴志祐介の「新世界より」をこの人にリメイクしてほしいと思うのは僕だけでしょうか?
絶対面白いと思うんだけどなあ。いつかコラボって欲しい。

なぜかしら。読みながら、「説教強盗」とか「盗人猛々しい」とか「言葉のバイオレンス」とかそんな言葉が頭によぎり続けたのは。
へうげもの宗匠に云わせると、
「気づいておりましたか。わたくしも気に食わないおとぎ話を叩き壊す時には遠慮など不要であると思っておりました」
セリフに気合いと実感と情念と魂がこもりすぎて、ねじきれそうになる作画。
こういうのを見て、へうげもの織部はこう云うのです。
「それ、甲!」
然るに、大変な数寄であると云わざるを得ない。

これを読んでいて、ゴージャスアイリーンを思わぬ者はおるまいて。
「私、残酷ですわよ」と言い寄る男どもをバシバシなぎ倒していく乱が是非見たい。
が、多分、そういう話にはならないだろう。非常に残念だ。

 押井守の切り時に悩む作品。
スカイ・クロラ」と「宮本武蔵」と「斬」と「アサルト・ガールズ」でぶっちゃけフィルムメーカーとしてのキャリアは終わったと思ってるんですが、ただし文筆業としての押井守はまだまだ色々語ってくれるし、語れそうで、また実際この二巻も面白いんですよね。相変わらず個々の理屈が先に立ってるので、全体としていまいち盛り上がらないんですが。
各シーンを全体から切断してしまうのは本当に悪いクセだよなあとか思います。
しかし、「アサルト・ガールズ」の小説版はまず鉄板だろうとも思ってる。

 君ら、僕たち、テロとおんば傘の下

 金曜日に仕事上のクレーム処理のため、羽田空港に行くことになった。
 というのも工場が客先に送るべき修理用部材を間違ってしまい、ユーザさんが激怒していたためだ。その前日、販売先からのお怒りを受けながら、すいませんすいません。明日午前中にお伺いしますので、とその場をとりあえず収め、電話を切って、ああー、超めんどくせ、ありえなくね? なんで間違うの? つか、なんで手配を間違ったわけじゃないオレが謝ってるの? といつもの営業メェンの悲哀を感じつつ肩を落としていると、端で聞いていた同僚が一言。
「明日、マジで羽田空港行くの?」
「はあ、行きますけど」
「いつも通り車で?」
「ええ、車の方がラクだし」
そこで上司も、
「やめとけ。明日だけは」
 WHY? なんでかしらん、と思いつつ、その時まで全然何のことやらよく分からなかったのですが、昼頃のニュース見てようやく、「うおおおい! 羽田にオバマ大統領来る日かよ!」
 なんてこった。信じられない。
 しかも、その次の日には実家に帰るため、もう一回羽田空港に行くという、なんという、なんと・・・(最初どうして金曜日に行こうと考えたのかというと、ついでに帰省分のチケットを買いに行こうという下心があったからだという)

 んで、言ってしまった手前、こりゃイヤも応も、クソもミソもねえわなと羽田空港へ。
 当日、朝九時。さすがに車はやばそうだったので、電車に乗ってガタゴトと。
 というか、東京駅辺りからすでに警察がちょろちょろ立っており、先行きが不安になる。
 大丈夫かね−、わし、テロ屋と間違われたりせんだろうか。
 だって、「キーチVS」の単行本買ってるしさー。後、カバンの中にはクランシーの本が何冊か、特に「日米開戦」が放り込んだままであることにはたと気づいて、「はあっ、なんてことを。できすぎているこの事態。もしやこれはオレを陥れんとする陰謀か。陰謀なのか」と戦慄しつつ、「いっそ、このまま空港で飛行機を乗っ取って、国会議事堂に突っ込んでしまおうかしら」「事業仕分けるぞオラー! 選別じゃ。選別じゃ。生き残ったやつだけが正義ナンジャー−!」とか不穏な考えがよぎりはじめたところで、「あ、すいません。乗り換えます。降りまーす」
 それから浜松町経由でモノレール乗って、羽田空港へ。
 ところで、関係あるようでない話なんだけど、あのモノレール乗ってるとなんかパトレイバーの気分になるよね。バビロン計画っていうかさ。ああ、これもテロ屋の話が・・・。
 で、空港着いたら警察官がわっさわっさいるのね。ご苦労なこった。
 地図見ると、客先は空港内のちょっとややこしいところにあるらしく、全然見当つかないから、とりあえず近くの警備員に道聞こうとしたら、案の定、間違って警察官に声かけてやんの。
 そしたら。「なにか?」みたいな感じでそれこそ足下から頭の上まで見られてさ、うわー、ヤッチッマッターですよ。
「あー、道分かります? ●●●さんとこに行きたいんですけど」
「何の用で?」いやいや、あんた関係ねーやん。いや、この場合、あんのか? どうだろ、分からん。
「修理しないといけないものがありまして、それで直接お伺いするようなってまして」
 すると、一瞬の沈黙。
 当然というかなんというか、カバンに目をやる警察官。その胡乱げな視線。
 どうしよう開けろと言われたら? 中には「日米開戦」というこの状況下ではあまりにおもしろすぎる書籍が入っている。それに修理道具として工具も持ち込んである。
「このドライバーを何に使うのかね?」
「このレンチがどうして必要なんだ?」
「それはね、お前のケツの穴をダイするためさーーー!」
 ああ、いかんいかん、どうしても考えがテロ屋? の方に向いている。
 そんな具合の妙な緊張感の後、警察官はふんっと鼻を鳴らすと、
「ああ、そう。ウチら分からないから、ここの人に聞いてね」
「そっすか。どもです」
 改めて警備員に聞くとターミナルを間違っていたらしく、しょうがないので空港内バスに乗る。
 ・・・うわ、赤ランプ灯りすぎだろ。
 なんかねー、やばい雰囲気が出過ぎですよ。踊る大捜査線みたいに「さも大事件です」みたく絵的にうるさくないのが、逆にリアル。
 パトやら護送車やら覆面がピッカピカまばらにいるのが、ちょうど低いところに見えたので、なんでそこに配置してるのかってちょっと考えると、ほんとに要所要所に仕掛けてるのが分かって、うわー、おっかねー。マジハンパねーな国家権力、みたいな。
 でも、一番リアルだったのは、なんかやる気なさそうなおっちゃんが警備員か警察か分からないけど、腕章つけて制服でダルそうに自転車で坂道のぼってんのね。それも帰りのバスでも目撃したから、巡回してんだろーね。
 もう、ほんとやりたくねー、みたいな雰囲気がにじみでてて、具体的に言うと、自転車漕ぐことが目的化してて、周りとか全然みてねーの。前だけ見てる。お前それ警らの意味ないやんけ、とか、きっと普段なら絶対やってないことをやらされてる感がリアルすぎて、うわー、こえー、超こえー。ぱっと見スキだらけなのもイヤすぎるー。

 で、昼前、まあまあなんとかクレーム処理終わらせて、色々見れて面白かったので帰りもバスに乗ったんですよ。
 そしたら、空港ビル内にお偉いさんとか報道陣とかが出入りするらしい駐車スペースが見えて、黒塗りのリムジンとかベンツのマイバッハとかレクサスとか、傷一つなさそうなてっかてかの高級車が鎮座されておられて、こちとら云百円の部材のことで、しこたま怒られて、頭下げ下げやってんのに、何なのこの違い。
 思わず「そりゃテロも起こるよなー」とかしみじみ実感しながら、明日の分のチケット買って、官憲がわらわら増え始めて緊張感の高まる空港を後にしましたとさ。


 そうそう、大統領見なかったの? と言われましたが、見ませんでした。そんな暇があるのは、物見高い暇人だけだし、そんな余裕が許されるなら、忙しくていいからもっと給料あげてくれよ、まったくまったく。


 





 

 「鴉-KARAS」ブルーレイ・フルエピソード・エディションを買った。

 この作品の第一話の冒頭10分を見た時、衝撃を受けた。アニメでこんな絵が見られるとは、と。
 そして、エヴァウルトラマンを再生産的な特撮とはまた違う角度で照射することで、現代的なスピードでもってアニメに置換して描いたのと同じように、仮面ライダーをアニメで描こうとしているこの作品は間違いなく次世代のアニメの本流の一つになるだろう、と予感した。
 ま、ぜんぜん違う結果に終わったんだけどね。

  • 感想

「は、鼻血が出るぜ! こんなん待ってたんだ!」(一話アバン終了直後、テンションあがりすぎて)
「おいおいおい、かっこよすぎるだろ」(第二話終了時、再びテンションあがりすぎて)
「アレ? まとめに入ってる? おもしろくなくなってるし、なにか、変、だ・・・ぞ」(第三話終了時、戸惑いながら)
「ば、バカな・・・ダサすぎる」(第4話最終シーンを見て)
「お願いしますから、80年代「ウネウネした機械の触手と合体したラスボス」はやめてください!」(第五話を見終わった直後の友人と)


 タツノコプロの40周年記念で始まったこの作品。はっきり言って問題点はある。
 まず、シナリオが雑だ。
 脚本は、ちょうどこの作品が出始めた頃、「スピードグラファー*1でものすげー面白い現代の暗黒神話を描いていた吉田伸。
 であるからには、マッドでありつつ、手堅くまとめてくるだろうと思いきや、オカルトに狂ったのか狂わされたのか、結論から言って、「お前は小中千昭か!」状態。つまり、シナリオが非常におかしなことになった。
 「鴉」は大きく分けて三つのラインから成り立つ物語となっており、
1,鴉=オトハの自分探し(典型的オイディプスバットマン仮面ライダータツノコヒーローの仮面のはめこみ)
2,鵺←→みくらの対決(個人的恩讐と全体的な信念の対立)
3,1,2に巻き込まれるマージナルな一般人たち
 そのどれもが中途半端で。かつ有機的に連動しておらず、最後半で1と2、1と3がそれぞれシナリオ上の都合として合流するのですが、本当に都合としての流れ作業となっており、まあ、あんまり上等なモンじゃないですわな。
 基本的に何が原因か考えると、普遍的な神話の構造*2をシナリオにはめ込もうとしすぎたためであり、主人公がオイディプスである理由や、廻向、みくら、鵺の関係性ともにロールモデルとしての機能しか用意されておらず、その中で「なんかいろいろあったんじゃろーなー」という窺い知れなさが投げやりにしか共感を呼ばないし、
 妖怪←→人間の持ちつ持たれつつな問題定義が「妖怪は人間がなくては生きていけないんだよ」「人間は妖怪がいないと心が豊かにならないんだよ」というオカルト的には常道*3でありながら、ヤバすぎる思想*4から踏み出すイベントもほぼないので、一般人も妖怪もエモい反応をするだけで、妖怪刑事や犠牲者である娘、「政治という人の世」に身を置きながら「異界」に巻き込まれ、結局そこからも離れていく青年の物語が現代的な要素となりえず、そのまま単なる供物でしかないなど、本筋が異常に飛び飛びになったり、キャラにカメラが全然寄り添わないで、イベント単位でしか語れない、ダメダメっぷりを披露することになったのだろうなーと。


 デザインは、基本的に「S.I.C」シリーズっぽくかっこいいんですが、中にはどうしてこうなった、というモノがちらほらあって、一番キッツイのは、5話からの廻向の意匠周り。
 あれはつらい。まいったを言わせてくれない。
 正直、正視できなかった。タツノコ悪党ラインを踏襲したのかもしれませんが、80年代「ウネウネした機械の触手と合体したゲームのラスボス」みたいなのはやめてください! マジでマジで。「アップルシード」ぐらいつらかったです。久しぶりに、ちょっと泣きそうになりました。

 
 演技も・・・まあ、ねえ。主演コンビが眠たい演技だったのがねえ・・・(何かを彷徨う言葉)
 あ、でも、渋谷飛鳥演じるヒナルはよかった。デビルマンのミーコといい、あのコは上手いよね(微妙なフォロー)
 あと、藤原啓治は素晴らしいですね。鵺はいいキャラです。

 と、以上のような「絶対に金を出したくない要素」が揃っているにも関わらず、持ってるんですよね。DVD初回限定版を全巻と今回のブルーレイ。
 はっきり言って、アクションと作画のクオリティは今見ても凄まじく、ていうか、現行品の等身大ヒーロー物としては極北であり、5話のビル爆破風景や、やたら美しい色合いのエフェクト周り。面取りして陰影の深いCG着ぐるみなどBDで見ていてますます目が豊かになりまくるので、お前らも是非買うべきですよと。

*1:GONZOの2005年制作アニメ。作画マニア的にはボロボロだが(色んな意味で)味のある絵とへっぽこ演出、マッドなキャラ造けいと世界観、秀逸なシナリオでボンクラ魂を直撃した作品

*2:DVDの初回限定版ブックレットで監督自身も「トラディショナルなヒーローモノを目指す」と発言してた

*3:なぜかオカルトはこういうバランス理論が好きな印象がある

*4:スピリチャル方面で山ほどある考え方