V・フォー・ヴェンデッタに触れる。


 原作を読み終えたので、映画とあわせた感想などを。

  • 映画版

 実のところ、公開当時は、あんまり興味なかったりします。
 マトリックスリローデッドのアーキテクトとの問答で、大いに血を滾らせてくれた後、案の定、レボリューションでは、ショッパすぎるオチを持ってきて、心の底からガッカリした記憶があったのと、今回もまた「体制が敵」ということで、ちゃぶ台返されたらヤだなーとか思ってたので、DVDになってから見ました。


 予想以上に、おもしろかったです。
 物語自体はマトリックスと同じぐらい青臭いし、一歩踏み間違えれば確実に二の舞を演じていたはずなのに、絶妙なところでバランスがとれていました。
 この作品はおおむね三軸で捉える事ができて、「V←→政府の暗闘世界」「イヴィおよび一般市民の平穏な世界」「Vおよびイヴィおよびヴァレリーおよび異端者の外部」となっています。
 この三軸がすごく効果的に働いていて、「Vの活躍と政府内の紛糾」で物語を進めていき、「一見すると平穏で我々のいる世界と何一つ変わらないのに、明らかに一党抑圧下にある日常」でディテールをフォローし、「異端者たちの悲哀」で共感させるという美しい構図ができあがっている。
 基本的に観客が誘導されるのは、ナタリー・ポートマン演じるイヴィーの、世界の縁から踏み出してしまった話なんですが、事実ここがすごくいい。彼女自身は政府が排斥しようとするホモセクシャルでもイスラームでも反政府活動家でもなんでもない。けれども、成り行きで彼女は引っ張られていき、ついにはアナーキストとして覚醒する。
 恐らく、ここは評価の分かれるところで「(成り行きゆえに)イヴィの変化のプロセスに説得力がない」と言う人もいるでしょうが、ぼくはここを全力で肯定します。
 なんでかっていうと、ここでウォシャ兄弟が前作「マトリックス」で示しきれなかった選択問題の解答を見た気がしたからです。
 自由意志は環境によって左右される。どちらに傾くにせよ、ある程度、整除された状態から自由意志は発生する。可能性が無限に拡散するものではなく、選択が閾下の刺激に影響されるとしても、発生する意思は必ず受動的なものではなく、そうして選択された行動もまた、イコール与えられたものではない。
 これはどうしようもなく地に足着いた、かつ地味な結論なんですが、こういうシンプルな理念が支えているからこそ、映画版「Vフォーヴェンデッタ」は力強い映画に仕上がったんじゃないかな、と思います。
 
 で、原作の方はどうかというと、(以下、次回)