ものすごい勢いで「バルバラ異界」と「風の谷のナウシカ」のガジェットが融合していく気分を味わった。

 おもしろい。
 傑作「ポーの一族」を外部から見直した作品のような物語というべきか。「ポーの一族」が吸血鬼から眺めた人間模様で、最後に観測者がふっと幻のように消えていくのに対して、不死者たちが残る幻として後ほど立ちのぼってくるのが楽しい。表裏一体の作品なのかもしれない、と思った。 
 

 いつのまにか「宮崎駿の雑想ノート」を手にしていたので、ついでに再見。
 マジ血がうずく三巻〜四巻までの戦争シーン。こういうテンションで生きてぇーなー。(「昴」ボレロを見た観客のような気持ちで)


 以下、バルバラのガジェットとナウシカのガジェットが不思議とシンクロした点について、「ナウシカ」の七巻を考えるネタとして思いつくままに書く。

※当然のごとく、ネタバレです。

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 漫画版「風の谷のナウシカ」でやはり目を引くのは、ラストのくだり。
 つまり、ナウシカの独善問題。それから、墓所王蟲のブルーブラッドの謎。


 そのうちナウシカの独善問題とは、「世界の命運を一人の人間がすべて決定していいのか?」という欺瞞に対する批判。墓所の主との問答をどう解釈するかにもよるのだけど、よく聞く批判箇所ではある。
 これは一種のヒーロー批判なので、ヒーローモノについて普段からアレコレ考えている身としてはちょっと考えてみたい。


 問題となっているのは、それまでの戦争がようやっと終結して、その事後処理が対話なきままに決定されたことにあると思われる。つまり、墓所の主=創造主←→ナウシカ=人類で対話は行われるのだけど、じゃあ、ナウシカ←→クシャナ/土鬼/蟲使い/風の谷の住人の間で対話が行われたのか、その努力は見られたのか? と云われるとかなり微妙だった状態で、ナウシカの意思が人類の総意であるという発想を宮崎駿の(途中で彼の主義転向があったとはいえ)独善であり、到底受け止めがたいと見る向きは理解できる。

 ただ、「じゃあ、他の道のりであのテンポが出せたかどうか?」と言われると非常に難しいと感じる。テンポを殺してまで、テーマを優先するのが正しいかといわれると、「それはそれで作者のオナニーだよね」という批判が出てしまうだろう。
 劇場版パトレイバー1の「HOS緊急停止のために勢いのあるテンポのまま箱舟を壊して、台風一過の空の下に立つカタルシス」と「リアリティとしてUPSを含む全機能を停止させることで台風を凌ぐ地味な作劇」と秤にかけてどちらを選ぶか? と言われるのと同種のジレンマ。
 リアリティとしての補足が時に作品の持ち味としてのリズム、テンポを殺すこともあるので、ナウシカのあれはあれで緊張感の持続した流れだったと納得してます。
 
 

 墓所王蟲のブルーブラッド問題。

 同じ血を持つものがなぜ秘密にされなければならないのかずっと疑問だったのだけど、バルバラ異界を読んでようやく納得できる解釈を見つける。


 バルバラでは、全体で一つの個体が登場する。すでに滅んだ火星の海に生きる生命体のことで、それは後に地球に飛来すると土着の生命体にとりこまれ、しかし、共通した遺伝的記憶コードとして残った。それが或る条件が整うと、共通の無意識層から浮かび上がってきて個の夢として表出する。その行き着く先は全にして個の存在。


 「全にして個」系はSFガジェットとしてアウターインベィション、ファーストコンタクトものなどなど使い古されたガジェットではある。ナウシカにでてくる王蟲もまた、全にして個の存在である。



 墓所王蟲が共通することがなぜナウシカたちが恐れたのかを考えると、「忌まわしい決別したはずの過去
=人工的なクリーンな世界と、自然発生して生まれた森の殉教者(=王蟲はすなわち、瘴気にまみれた世界と共生することを選んだ人間のもっとも尊い姿)がつまり、実はひとつところから発生している事実は政治的なパニックを引き起こすから黙っていた」かと考えたんですが、
 バルバラで得た感触からもう少し違う風に考えると、墓所王蟲とは同種で、同じく全にして個の存在。ただアプローチが違っただけ。
 墓所および王蟲の死滅後も墓所のセンサー類から蓄積された情報はあいかわらず造園にストックされていき、いずれ腐海期の終わりごろ、人間による再発見で知識は解放される。
 それが再び、造園そのものは土鬼の教義にある「死」のメタファと強く連結していて、なんでも与えられる平穏な不定の世界として残される。
 現住生命体がコントロールを完全に失った腐海から適応して拡散できるかどうかは、賭けであるが、恐らく腐海・正常後世界の棲み分けが進んでいく。森の人およびナウシカの血脈は腐海で息づく。腐海は秘境として残される。自然との共生完成形。
 ナウシカが黙っていたのは、すでに墓所王蟲がいなく、コントロール無き時代となったことを自覚させてしまうことを恐れたため。
 真実、自然と共生するつもりなら、墓所のような、与える=明白な人工的アプローチではなくて、王蟲のように自然の営みであるかのような=一見して(超)自然的アプローチであるべきという発想から。

 無論、これには(目に見える)神は現在してはならないが、(倫理としての神は)存在しなくてはならない、というジレンマがつきまとうが、この論法は作品の外部に持ち出して批判するのでなく、あくまでも倫理の不在が様々な悲劇を呼び起こした作品内で説く分には、十分に有効であると考えられる。