「landreaall」(おがきちか) 15巻を読む。

変わらず面白い。
特にこの巻はストーリィ全体の大きなフックなので、なおさらなのかも知れない。(いくつかそういう描写が増えてきた。後述。
さらっと書評系ブログを眺めて気になった箇所。
ランドリオールと言えば、id:kaienさんとid:Gaius_Petroniusさんとこの書評が色々まとまって書いているのだけど、実際の所、彼らの書評にはいまひとつノレないのである。特にランドリオール絡みは毎回、砂を噛んだような気分になる。*1
これは「ランドリオール」がどういう物語であるのか、という視座の違いでしかないのだけど、彼らは主人公DXがいかに王たり得るのかを描くストーリーだと考えている一方、「こんな主人公がいたらなー」という素朴な願望を公言しているのだ。そのなかで「自分ならどのように振る舞うのか」という思考実験をやっている。そして、それをもって、読者が眺める現実についても語りかけている。
彼らの言説は常々まったく正しいし、「優等生的、啓蒙的だなー」とか思いながら、「だが、知るかボケ。アバヨ、オレはオレの道しか行かねーぜ」と本来批判もする義理もなかったのだけど、ランドリオール15巻を読んでいて、非常に決定的なコマが露わになり、そこでid:kaien氏とid:Gaius_Petroniussi氏がまたぞろ「やれ王様の器だー」とか言い出すのをふんふんと大勢が納得させられるだろうことが読みながら頭にふつふつ浮かんできて、「ふざっけんなボケ、オレの読書をすかさずメタにもってってんじゃねーよ、ボケ」と全然まったくこれっぽちもガマンならんかったので、今書いてる。うわー、ちょう言いがかりんぐ。正直、すまんかった。
さて、彼らの消費する「ランドリオール」とは、現実の思想にまで敷衍しうる一種のRPGなのだ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091128/p1#c参照。このように振る舞えたらかっこいいよなー、あこがれるよな−、痺れるよなー、良し、そうするにはどうすればいいか分析してお手本にしちゃおう、そういうものだ。
こうすることで、フィクションが現実に耐える強度を保つというのは素晴らしいことであるのだし、それは評論としても一定の評価をされるべきことなのだが、じゃあ、そこで取りこぼしたことってなんだろうね、という話。



以下、ネタバレ







「君は報われる幸せを知らない」
このフレーズは実際、多義的だ。http://d.hatena.ne.jp/kaien/20091129/p1(参照)
この巻はこのセリフのために色々種を蒔いていたといってもいい。
が、とりあえず先に、DXのこれまでの行為について振り返ると、
「惚れた女のために、おっかないドラゴンを倒した。でも、DXは、はなっから王子様とお姫様は一緒に暮らしましたとさ、ちゃんちゃん、とはならないことを知っていたのだ!」
「階級社会のガッコに放り込まれました。そこのところでは、竜をしばいた高位貴族の嫡男であるDXはビッグルーキーだが、根は傭兵なので、下々の人々と自覚的に分け隔て無く接している。つか、貴族的お高いのはピンとこないでござる」
「その下々の者のうちのダチが本来、階級的には得難い職種に向かう研修をアシストしたり。バレると、かなりまずい。階級社会的にはめちゃくちゃまずい」
「本来、命を賭ける必要のない職人の息子を救うため、致死性の呪いを受ける」
「ダチの家族問題に首突っ込んで、死にかける」
やー、ヤバイですよね。彼。客観的に王様の器じゃない。すぐ死にそう。人一人の命は国より重いとか考えてそうって言われてそう。
でも、作中だとあなたは王の可能性を秘めているんじゃねーの? と周囲からは漏れ聞こえている。
さて、どうして?

作中、何度も理解できなくて首を捻るのは、この階級社会のあり方なのである。
あえて言えば、ヌルい。
王城で生きている貴族連中と学園連中の温度差にビビるというか。
出てくる貴族連中はガチガチの階級主義者が多そうだ。目的のためなら、賤民など死ね、場合によっては貴族すら死ね。というスタンス。
で、一方、学園内でののほほんやってる彼らの息子娘。
慎重に区分けされているわけでもなさそうだし。
考えられるのは、DXと妹イオンに集まってくる連中はリベラルが自然と集まってきたという感じだろうか。それで作中のフォーカスから保守派が外されているんじゃないか。
そういえば、序盤出てたとっぽい貴族のお坊ちゃんとかもう出なくなったしね。
ここで重要なのは、DXのスタンスがいわば「やりたいことしかやらない」ように写ることだ。
15巻において、前王の密命により、「かつて起こった戦争の中立地帯が混乱して壊滅した」とある。さて、これを指して、DXの父と、次代の王を選定する貴族はあからさまにこの王を非難する。
しかし、読者からすると、「狂った王様」というのは、リベラルに立つ側の主張にすぎない。実際、王は何を考えて実施したのか? そのエピソード的補強がないため、よく分からない。(これから過去編に入るので、説明が為されるのだろうが)
そうだとすると、DXも前王とは、程度の違いこそあれ五十歩百歩であるといえる。
例えば、極端な話、「探検していた友人が見つからない。オレが現地に行こう」と言い出すのかもしれない。で、せき止められて、周囲からなだめられて、国軍が動く、とか。で、それでもガマンできず飛び出してしまう、とか。
王には二つの身体があり、政治と王個人の生命は本来、不可分のものだが、この場合、DXはそれを超えてしまっている。彼は権力(とその責務)と不可分ではなく、彼の身体とは、もはや権力と接しない。これは近代民主主義の骨子でもある。
つまり、彼が自由であるためには王権を得ることを失わなければならない。が、彼はその時々で権力とすでに結びついてしまっている。
このジレンマにあるのが、今現在の「ランドリオール」であり、決して王たりえるのかを計られ続けているのではない。それは一方からの見方でしかない。
彼が単なる一個の「自由意志体」であるか王の政治的身体を受肉するのかが問われている物語なのだ。

その証左が、例の「君は報われない幸せを知らない」だ。
あのシーンは、過去の一切のシーンより先に、同ページにある「ブドウ」と結びつくのであると着目するべきだろう。
ここはDXにつきまとった持続する不幸の解消ポイントでもある。
DXは幼き頃、槍熊と呼ばれる野生動物との親交を得る。しかし、その幸せは崩れ去り、親交のあった動物とそれを狩りにやってきた人間を殺してしまう。
ここで彼には一個の試練が突きつけられる。死んだモノを食せよ、食すことで死んだ個体との一体化を意味する儀式となる。さもなくば群れより追放するぞ、と
結果的に彼は食さず、群れから追放される。
だが、彼は儀式を再構築しなおすことにする。つまり、それが「ブドウ」だ。死体を埋めた場所にブドウを埋めて、果実を食す。
ここで象徴的なのは、言うまでもなく、果実とは智恵なのだ。DXが智恵を振り絞っただろうこの解決方法には、しかし、このとき、了承が降りない。人間と動物との分かちがたき現実がここで現れる。
そして、彼は毎年必ずここに現れて、ブドウを食すことになる。それが報われない幸せであるとして。
それから数年後、彼には許しが与えられ、群れへの回帰が認められる。
なぜなら、この条件には槍熊の言うところの「人間=同族の群れ」を形成したことに由来するからだ。
ここで重要なのは、その直接の同族に、「貴族」が含まれてはいないことだろうか。
商人、職人、異国からの訪問者、影仕え。槍熊という名の自然。
一方で、王国内の仕組みとして王になるには、「玉階」に認められる必要が在るのに、「貴族」であるモノが誰もいないのが非常に興味深く、まだこの作品も道半ば。DXたちがどうなるのか楽しみにしたい。

*1:それでも読むんだ、というツッコミはさておけ。対義的なモノは学ぶべきなのだ