すいませんでした。ノーランさん。

  • 感想とか

 「インセプション」見てきました。 
 実は全然期待せずに観に行ったんですよ。だって、「アウトレイジ」観た時に流れてた予告編見る限り、びっくりするぐらい「ダークシティ」の匂いがしたしさー。もしくは「プレステージ」とか「インソムニア」みたいにリクツをこねくりまわした小品なのかなー、ああ、こりゃダメなノーランの方かもなーとか。
 まー、こんなんたいがい言いがかりも甚だしく、正直、こんなこと言われる監督の方が迷惑な話で、ただ「ダークナイト」を撮った監督の次回作ともなれば、これはもう期待されてもしょうがないみたいなところもあったわけでございまして、さあ、この私めをどのぐらいリッチな気分にさせてくれるのかしら、どうなのよ? と思って先行上映に付き合う辺り、オレもなんだ期待してんじゃんね、というね、この辺が人間の機微の難しいところで、そういえば女嫌い直ったのかなー、テーマに邪魔だからマギー・ギレンホールを爆破って・・・いくらラストのシビアに達するための作劇に邪魔だからってあんな死に様用意しなくてもいーじゃんね。諸々の事情からとはいえ、原作には本来いなかった幼なじみキャラをてめーでつっこんどいてさー、まー、そんな具合に爆破したあとの犬みたいに大喜びするジョーカーは本当に活き活きしてたよね。「ようこそ男の世界へ!」(by荒木飛呂彦
 そんな具合に「ダークナイト」の大当たりで監督としてフリーダムの世界に飛躍してしまったノーラン閣下ですが、女絡みの描写はマイケル・マンみたくなってほしくないなー、せめてイーストウッド路線で。けど、説教だけは勘弁な、とか思いながら観に行ったら、
 結果大当たりでした。
 そんで、ああ、そうだ。この人、「メメント」の監督だったんだっけ。と見終わってから思い当たったわけで。

  • スタッフとかキャストとか

 監督は、クリストファ・ノーラン。
 言わずと知れた「ダークナイト」の監督であるが、どっちかっていうと今作の雰囲気は上で書いた通り、「メメント」や、あるいは「プレステージ」に近いものがある。
 この監督のキャリアを考えた時(つってもデビュー作「フォロウィング」だけ観てないんだが)、まずその作劇にはハッタリがある。
 どんでん返しともまた違う、事実の暴露というべきか。物語におけるディスクロージャーというのは扱いに難しいところがあって、例えば、スターウォーズの「I'm your father」はあれをもってあの映画が神話の域に達した素晴らしいシーンだが、そこには一種のゴシップが匂う。相対化された価値にあっては、「だからどうした?」というバカげた内輪ネタでしかない、ともいえるからだ。
 そこで、そんな野暮天にグウも言わさぬために何を必要とするのかというと、まあ、それは色々だが、この人が凡百ではない所、あるいは貴重なところというのは、そのハッタリを仕立てるために、どういう風に構築していくかかなり熱心にリクツ立てしたがる点だ。
 この作品の「夢を設計する」というのはそのままノーランがこの作品でやってきたことに類する。この映画をSFであるとした場合に慧眼なのは、よくやりがちな、潜在意識をジャックするとかハックするとかクラックするとかという紋切り型で表現せずに、あくまでも建造/構造物(ストラクチャー)を「設計/建造する」ことにある。
 で、その建造物/構造体の内部に人工的な意図を植え込む(インセプション)ことで、ジャック/ハック/クラックをすべて含有させていること。
 そして恐らく、極めてアトランダムで不安定な姿をしているであろう潜在意識をあえて人造化しようとするという発想は、ノーランのオブセッションに起因しているもので、じゃあ、彼の妄執とはなにか、といえば、それは徹底したスクリーンの統御だろう。
 レイアウトのキマリ具合も、どこでどの音楽を鳴らすかも自信に満ちた強い根拠があって、それらがかなり親切にも観客に映画のサブテキストとして披露されている。ちっとダダ漏れなぐらいに、ズバリ出てきており、そのため分かり易い、ともいえるし、この作品は前述のクリストファー・ノーランらしさがよく出ているんだと思う。今のところ、ノーラン作品ではマイベスト。
 あ、音楽はハンス・ジマーですが、ダークナイトといい、どうしちゃったんでしょうねえ。作品に寄り添いつつも全力で「オレがハンス・ジマーだ!!」と主張したがるので(まあ、そーいうのを要求されてるっつーのもあるんだろけど)、オレのなかではジマーか七瀬光*1かっていうね(嘘)、そういう人なのに、ほんと押さえ気味。なんか首根っこつかまれてんのかなー。
 良い悪いはありますけど、邦洋問わず昨今、劇伴でごまかしがちなので、その辺りをきっちりコントロールできる作品は総じて質が高いと思います。好きだけどね、ここぞ!という所で荘厳な音楽! 見事、男泣き! とか。
 いや、エヴァ破とかガンダムUCの話じゃないですよ。

 主人公コブ演じるレオナルド・ディカプリオはいいんじゃないですかね−。「レイン・フォール」のゲイリー・オールドマンぐらい吠えっぱなしでしたが。最近、なんかこんなんばっかりなような気もしますけど、王子様の次は、モチベーションを保つのに苦労する男かー。
 キャラクター俳優といってしまえばアレですが、やっぱ「キャッチミーイフユーキャン」の時はひねくれていて、ステキでしたよね。20代後半の男を騙って詐欺を働く20歳の青年を演じる当時20代後半のレオナルド・ディカプリオっていう組み合わせ。最近、見直したんですが、さすがスピ爺だと感心です。
 サイトーことケン・ワタナベは普通によかった。この「普通」というのはなんでかつーと、ハリウッド特有の事情により、いつ色物化するのか別の意味でハラハラしてたんですけど、そんなこともなく最後まで出ずっぱりで、すっかりかっこよかったという。どーでもいいですが、老人メイクの顔が、死んだじいちゃんに、そこはかとなく似てました。
 で、意外だったのがJGL。ジョセフ・ゴードン=レビットって長いからもう書かないけど、「500日のサマー」ではあんま好きじゃなかったんだけど、クールな融通利かない相棒役がハマってました。
 細身に光沢あるモダンなスーツもいかにもインテリ優男風で決まってた。エレン・ペイジと2ショットで収まってるシーンはどこのマンハッタンの恋愛映画かと。
 そういや、なんかアジアンっぽい顔よねー、誰かに似ているなーと思ったら、窪塚洋介。 ちょうどアイキャンフライを思わせるシーンで頑張ってたし、むべなるかな。
 まあ、マジな話、スタントあんま使ってなかったそうで、キレのいいアクションやってたと思います。確か「GIジョー」にも出てたんだっけ。あれはレイ・パークを観る映画なんで、全然記憶に残ってないけど。後、「バットマン3」ではリドラーやるそうですが、よりにもよってリドラーて。なんで?
 後、アリアドネ演じるエレン・ペイジはなんかちっさい人でしたね。かわいいけど、「バットマン・ビギンズ」のケイティ・ホームズといい、ロリっぽいのが実は監督のタイプなんでしょうか?
 替わって、鬼嫁ことモル演じるマリオン・コティヤール
 怖いです。マジで。本当に。
 彼女出てくるシーンはサスペンスはサスペンスでも、ホラーサスペンス。
 モルといえば、彼女の名前は夢の神さま、モルフェウス(そこから転じた「変身」やモルヒネの意味をキリアン・マーフィ演じるボンボンにとっての偽造士トム・ハーディや、特にコブにとっての彼女に当てはめるとまた興味深い)から取っているのだと思うのですけど、まーね、彼女の迫真すぎる演技によって、コブのの強迫観念が見事に昇華されており、コティヤールは美人でナイスバディなんだけど、でもやっぱちょう怖いです。


(※以下、ネタバレ)

  • 演出とかメモ的に。

 とにかくアイデアの使い切りが素晴らしくて、最初、夢の話と聞いてまず思いついたのは、「じゃあ、クライマックスは夢のまた夢の話かな」と思ったら、初手からそれでスタートで、しかもその業前もアッという間に破られるという。じゃあ、クライマックスはなにかといえばオープニングから発展させて、夢のまた夢のそのまた夢を破られないためにどうするのか? ということで途中からケイパー映画(ちょっとクラシックなのがいいですね、実際キューブリックの「現金に体を張れ」とか思い浮かべてた)らしさが出てくるんですが、以降のアイデアが全部現れているという、ほんとに完璧なオープニングで、お見それしました。
 設計描写でよかったのは、合わせ鏡のシーンと、ポンポン街が爆ぜていくところがいいですね。どっちも夢の有限性を示唆しており、後述するラストの無限可能性についてある種のアンサーを与えている。
 後、初手に出てくるエセ日本城とか「またしてもインチキ日本か」と不安視させつつ、きちんと分かってるんだぜ? とばかりにJRと東京の空撮を出してくるというのがニクイ。
 オープニングのモルのファム・ファタルぷりにくらくらしたなあ。さすが鬼嫁、ブレがねえ!
 モルは最初からかなり徹底して他者なんですよね。「他者とも共有される夢」にあって、それを拒絶しつづける存在なのだから。
 ただし、この「徹底」というのはすこしややこしくて、現実の(死んでしまった)彼女というのはどこまでも他者で、理解できなかった生き物だったのに対して、夢に幽閉された彼女(コブが作った投影)はある意味、完全な依存の対象であるということ。
 だから、「他者とも共有される夢」にあって、その夢を拒絶する彼女というのは、自分以外の他者を許さないことで、それは翻って、彼女との関係を否応なくフォーカスされたコブの孤独を知らしめてもいるのですね。
 そして、彼女の無惨なまでの怪物性というのはまた、現実の彼女を理解できなかった故に、そこから出発して造り出した夢の彼女もまた、ものすごく不完全で歪な結晶と化してしまったということの証左であり、それは他者の完全な解釈という原理的な不可能性に由来しているわけです。
 ここがこの作品のラブロマンスとしてのある種、古典的な鋭さで、救うことのできなかった人をなんとか再構築したピグマリオンの呪いについての物語でもあり、ギリシャ悲劇的でもあるところでしょう。
 そして、ラストでモル=夢=他者との意識共有から開放されたコブが行き着いた現実こそが最大の皮肉に繋がっていくワケで、これは後述。
 そうそう。「ダークナイト」に続いて今作も犯罪映画なんだけど、犯罪っていうのは、すべて人間の努力の逆転した形なのですね。
 そう言ってしまうならば、「インセプション」でケイパードラマとして問われたのは、クラシックな段取り力と個人のモチベーションの話がドラマの力学だというのは、いかにもジョブス本とかハックルベリー先生の無邪気なドラッカー本が売れる今風だとも言える。
 疑心暗鬼を挟まないのは、積み上げることが重要なのであって、付随する足の引っ張り合いは要らないんですよと。
 無重力描写はJGLが働いててよかったですね。泥棒モノというジャンル特有の事情により、この人が裏切るのかと思ってたのに。みんな爆睡中で、一人黙々と働く優男は格好いいぜ。
 階層が深くなるにつれて、時間感覚が遅延していくっていうのはドラマの構造に引っかけつつ、時限爆弾のパラフレーズとしても上手いなと感心しました。
 よくあるじゃないですか。残り5秒が5秒じゃないっていうやつ。あのウソ臭さを回避するためによく考えついたなーと。
 それでいえば、飛び込む車の重力に引っ張られるスローモーションな姿が、下の階層のカット短めの無重力アクションシーンに繋がってるとか、シーン時間でいえばもっと長くなるのが雪山要塞シーンである、みたいな階層毎の時間設定だったり、エレベーター爆破が要塞爆破に対応するとか、そういう縦横に展開する同時描写が上手い。詰め込みまくってるなあ。
 そういう意味じゃ、雪山のシーンはもっとコンパクトでもよかったんだよね、侵入まで長いし、爆破に至るまでも長い。ていうかなんで雪山? メタルギアソリッドをやりたかったの?
 まあ、それ言ってしまうと、もっとこぢんまりしてても良かったんだよね。1から10まで段取り説明するから2時間半もかかっているわけで、雪山シーンはビッグバジェットな作品特有のリッチさが出てたけど、それだけに冗長でもあったわけで。これは、「バットマン・ビギンズ」にも言えることだったけど。
時系列の錯綜は、メメントから比べて上手くなったよなーと。この錯綜加減は金庫破りモノの「説明しよう!」っぽさで、「現金に体を張れ」を思い浮かべた遠因なんだけど。
 ケイパーでセラピーな作品っていう考え方だと「ザ・セル」はこの領域に到達してもおかしくなかったんだよな。あれは当時流行のサイコサスペンスだったけど。

  • ラストについて

 のっけからなんですが、これ何に一番似ているか、といえば押井守の「ビューティフルドリーマー」ですよね。アニメかっていうぐらいの鬼のようなレイアウト力とかもそうだけど。
 同じ夢を扱ってるものでも「パプリカ」って感じではないのは確かだと思います。主人公の二重性という点で観れば、あっちゃんとパプリカとは、コブとモルの関係に近いものがあるけど、どうってことないっすよね。
 ま、あんまり他の作品のネタ割るのもどうかと思いますので、それはこの辺にしておいて。
 ラストの話。
 この作品のラストってどっちつかずで終わってるように書かれているんですが、一応、きちんとしたオチはあります。この辺がノーランのノーランたる所以で、セリフで全部語ってしまう病とはまったく違うんですが、「オチ! 示さずにはいられない!」という具合に、エンドロールの最後の最後に流れる音楽で示唆されている通り、実はラストでコブがインセプションされてるんですね。*2
 もっともこれがミスリードだというのも含めてインセプションなんですが、とりあえずコブがインセプションされているという前提で以下話します。
 何をインセプションされたか、というのは示されていないんですが(仕事が成功しましたよ、なのか、子供が自分を待ってくれてますよ(二人の子供が成長していないのは一つのミソですが)かは分からない)、「妻はもういない」という中心的ドグマについてのインセプションを受けたのでしょう。
 ある感想で、この潜在意識は集合的無意識であると言っていました。その辺の知見をほんとに上っ面しか持たないので
、判断しにくいですが、その考えはどうだろうと思います。
 なんでかつーと、集合的無意識ってのは、人間の奥深いところにある全員が問答無用で共有する世界だからです。インセプションの深い階層はそれとは違います。
 本質的にそこは個人の、まったく個人の世界であり、それゆえに、最後に訪問するコブとモルがかつて生み出した完全な二人だけの世界というのは、その精神状態を反映して荒廃して崩壊寸前なわけです。
 全然普遍的なものはそこにはなく、ただ個人の救済だけがそこにあります。強いていえば、「リンボ(字幕では虚無と書かれていましたが、辺獄というものの回復可能性、お釈迦様の蜘蛛の糸の如き有様をオミットしているので、ちょっとどうだろうと思いました。とても訳しにくかったんだろうけど。)*3」が個人的なコンプレックスを突き抜けた、その集合的無意識なのかもしれないですね。
 だから、コンプレックスを直後に克服したコブは階層飛ばしでリンボに向かうことができたという。
 それだけに、この作品が潜在意識のアイデア集合的無意識という概念を使っているとしても、逆転しているんですね。
 これはラストのラストにも響いており、ここでノーランが仕掛けた倒錯が分かるんですが、その倒錯というのは、
「実は現実こそが、我々が共有する最大規模の夢、つまり(あえていえば)集合的無意識なのだ」と。
 「子供」という原型がいて、マイケル・ケインという「父性」を演じるキャラクターがいる。
 最愛の妻はもういない、という強烈な力点が作動しており、リンボ(集合的無意識)と接続した世界である。だから、そうして観るとリンボから回帰するサイトーとコブにおいて、段階的なキックを伴わないのも、その補強材料となるんですね。
 この現実=窮極の夢という考えからすると、最後のコブの有り様というのは、「現実を夢と見なしたがゆえに、死ぬしかなかった」モルとの鮮烈なコントラストにもなるのです。
 そして、彼がなぜ夢を現実と思うに至ったか、というサブテキストも劇中ちりばめられており、例えば、エッシャーの「上昇と下降」を思わせる階段で語られた、通常の階段構造を無効化したパラドクスを加工することができるといったものや、合わせ鏡のシーンで描かれた現実の対照した風景の創造、カフェテラスで語られた夢は夢であると認識させないための手管についてなどがそれに該当するでしょう。
 ここで暴露されるのは、現実が夢であるか、そもそも夢とはなんなのか、という話のことです。
 なにか主体客体を問わずに劇的な変化を為すものが夢であるならば、その変化を促さない、あくまでも我々の知るルールに則っている夢があるとすれば、それはすでに現実ではないのか。
 日々、流転する万物にあって、我々は、我々によって建てられて作られて壊される我々の世界のなかで生きており、そこにおいては、時として昨日の常識は明日には非常識になっているかもしれないわけです。
 であるならば、この現実もまた夢でないと誰に言えるだろうか、ということであり、押井守の「ビューティフルドリーマー」を久しぶりに観たいなーと思ったという。


twitterで書いた別口の感想文をまとめてくれたものもあります→http://togetter.com/li/36620

*1:アニメのBGMコンポーザー。ノエインとかファントムのTVシリーズで有名。この人も聞くとすぐ分かる。ALIプロジェクトぐらい分かり易い(嘘)

*2:キックに使用されるエディット・ピアフの「後悔なんかしない」が、徐々に歪んでいってタイトルが現れる。つまり、我々観客もまたこの映画からキックされるはずが、実はさらなる深階層に入ってしまって、引き延ばされるというたいへんな悪趣味に満ちたメタなネタ

*3:後、非キリスト教圏内にある渡辺謙がリンボに永らく住んでいたというのはきちんと宗教的なニュアンスがあって面白い