教科書としての、好きなモノとしての 〜「コクリコ坂から」〜

 ちょっと前から考えていることがあって、今、スタジオジブリがやったら一番おもしろい企画ってなんだろうってコトなんだけど、それは「よつばと!」を「TVアニメ」で「ジブリ」がやるっていうことなのね。
 オレが日本テレビのプロデューサーか鈴木敏夫なら絶対実現したくなる企画だけど、これ思いついたのはなんでかっつーと、ずいぶん以前に京都アニメーションの終着点が「よつばと!」アニメ化じゃないか、って話をちょっとした四方山の中でしたことがあって、そこでオレは「京アニは、フレームの中にどうやってキャラを埋めることに腐心してきたスタジオなので、カメラから無意識にはみ出てしまったり見切れたりする5歳児・よつばの行動の無根拠性を収められないだろう」って否定的なスタンスで考えてたので、じゃあ、逆に「よつばと!」をフィルムにすることのできるスタジオってどこだろうって考えた時に、もうこれはスタジオジブリしかないな、ジブリはこれをモノにできるかどうかで、宮崎駿以降の趨勢を占うしかないでしょうって思い至ったのね。
 で、そういう思いをひっさげた状態で観たんだけど、いや、悪くない映画でしたよ。
 公開当時より非難囂々で、言わずと知れた「ゲド戦記」がデビュー作の宮崎吾郎監督第二作。
 実際、オレもゲドを初めて見たときは、ケツの収まりが超悪くって、最後まで観るのに苦労したぐらいなので、まあ、かなりハード下げつつ、「寄らば斬るべし!」ぐらいの構えで観に行ったんだけど、実際見てみると、あらら、いい感じのフィルムに仕上がってるじゃないのよ! やればできるわね。と、なぜかオネエ言葉になってしまうぐらいに90分間の時間を映画館で座ることが集中できる映画でした。

  • スタッフとかキャストとか

 監督は宮崎吾郎
 ていうか、すいません。今回、スタッフやキャストについては、勉強不熱心な映画スキーである自分からすると、全然来歴を知らないのですげー語りにくいんですけど、宮崎吾郎について云えば、オレこの人の絵ってキライじゃなくって、「ゲド戦記」のポスターも公開当時、散々な云われようなんだけど、(真横のカット描いて、押井守云うところの「情報量が半分になってる」ってヤツ)分かり易くって好きなのね。ああ、これが描きたいのね。これを描くためにアニメをやるのねってな案配に。割と宮崎吾郎の映画って「冷えている」作風なんで、こんな風に突出して描きたいものがあるとホッとするのね。
 ただ、そういうのを差し置いても、しつこく言うけど、「ゲド戦記」の詐欺っぷりはなかなかのもので、まあ、あの映画の戦犯は100%鈴木敏夫だと信仰しているんだけど(この点において、宮崎吾郎宮崎駿も被害者。無論、最大の被害者はル・グィン)、なんか聞いた話によると、「ゲド戦記」を映画化するにあたって、「スクリプトについてはハヤオが責任もつから、やっていいよ」って話だったらしいじゃん。それがフタを開けてみたら、脚本がゴローちゃんと「海がきこえる」の丹羽圭子、ってどう考えても、鈴木敏夫の陰謀ですよ! ふざけやがって、そんなだからテメェ極悪人って云われるんだよ!
 あ、別に丹羽圭子が悪いって意味じゃないよ。
 丹羽圭子は「借り暮らしのアリエッティ」と今回の「コクリコ坂から」で株を上げたと思ってる。ただ、「ゲド戦記」の仕事降りを考えると、恐らくマトメ屋さん以上の仕事になってないのかなーと感じるワケで。
 音楽は、武部聡志。なんだけど、すいません。名前を聞いたことないひとだったので、wikiで来歴確認したけど、知ってる仕事はビーチボーイズぐらいしかなかった。劇伴についてもそんなに印象がない。ていうか、「上を向いて歩こう」と主題歌が衝突してるので、BGMにはそれほど快楽がなかったのだよね。
 そうそう、音響設計については、後述するんだけど、とにかく色気がなくてびっくりするぐらいだった。 音響監督をチェックしたら笠松広司だから、この人が過去に担当してるポニョではかなりアッパーに表現してたし、不思議だったねえ。だから、多分、上層部のディレクションだと思うんだけど。
 キャストについては、長澤まさみ岡田准一は全然違和感ない。抑揚が利いてて、棒読みになってなかったので、劇中とは別の意味でハラハラすることはなかったので、よかったです。(一部キャストで怪しいひとがいたが、もののけ姫のサンみたいなメインキャストで出ずっぱりなのに、作品を危うくするレベルで演技に失敗してることはなかった)
 もっとも、演技指導してんのかなー、と不思議なシーンはいくつかあった。ただ、これも結果的にはフィルム全体の色調として生々しさが希薄なので、そこがフィルムに統一感を与えていたように思う。

(以下、ネタバレ含む)

  • 演出とかメモ的に

 冒頭の「よつばと!」の話の続きなんだけど、やっぱりスタジオジブリでもアニメ化難しいのかなーと思ったのが開始早々のことで、主人公が鏡の前で髪を結わえるシーンがすっごい淡泊。
 するっと結んでて、もう次のシーンに入っちゃう。
 とにかく寄らない。ミドルレンジで「状況を説明」してしまう。
 この辺は、作家性といえるのかなー。例えば、萌えっぽい(例えば、京アニ的な)演出なら、「よいしょ、よいしょ」と結んでいる可愛らしい姿にぐっとフォーカスするだろうし、それを言うなら、宮崎駿だってカット割って、リズム作ってカメラをヒロインに寄せると思うのね。彼はヒロインがかわいくて仕方ないから、もっと見せたくなると思うし。思いつく限りでは、カメラ寄せて、じっくり髪を結んでる→外からのアクション入って、主人公が結わえる手をすこし止めて、あわただしく力を込めて結ぶ、とかやりそうなところをこの作品ではやらない。
 さっと流す辺りが、「冷えてる」作風な所以なんだよね。
 

 この「冷えている」について話をすると、構造体のディテールは(特に縦向きに)貫かれているんだけど、あんまりそこで生きている人達のまめまめしさは拾ってないところもそうかな。(構造の枝葉としての「細かさ」と行動の一連的な「細やかさ」は異なるとしとこう。)
 例えば、これも宮崎駿との比較になるのだけど、千と千尋の神隠しで、湯屋のドーンと吹き抜けの構図があって、やたら長い階段でどかどかどかっと女の子が縦に斜めを加味した、実に宮崎駿夫的なといわざるをえない、スピード感のある動作をするんだけど、そういった構造体の上で見せる動きが観られたのって、かろうじて最後の最後の坂を下るシーンだけで、それもカリオストロの城のなぞり以上ではないのね。

 まあ、そういう意味では、この作品は宮崎吾郎の好きなモノを丁寧になぞってフィルムに仕上げている、といえる。
 例えば、メインのドラマの舞台になる「カルチェラタン」なんだけど、単純に想起させるのは無論、「千と千尋の神隠し」の舞台になる湯屋だけど、そこは「ナウシカよりビューティフルドリーマーが好き」だった宮崎吾郎だから、直接的にはビューティフルドリーマーの舞台となった「終わらない学園祭前夜の風景」だろう。
 戦艦が爆散するシーンが回想として差し込まれるんだけど、この辺も何気にイノセンスの戦艦とか庵野秀明的なカットを彷彿とさせる。特に、宮崎駿が戦艦を描いたら描くであろう応戦する兵士達がすっぱり抜けているのが、らしいっちゃらしい。
 そもそも、この作品に悪党はいなくて、傷つけるモノなんていない。優しいが、どこか漂白された世界観というのは、おもひでぽろぽろ高畑勲を思い起こした。
 後、ドラマ的なキモになる部分が、原作からとっているんだけど、まあ、その設定自体は少女漫画にはありがちらしいんだけど、(同じドラマ構造を持つよしながふみの「フラワーオブライフ」の劇中劇でも観た人が「うわあ・・・」って感想もつぐらいだし)、そこを改めて1963年っぽさ、ということで「赤い疑惑」をリサンプリングしてる。
 これは山口百恵→石原めぐみ→長澤まさみっていう、なんとなく窺い知れるものがある女優のラインあってのものかなーと。(うがちすぎかもしれんが)


なんか腐しているように見えるけど、縦の動きを降りたり、昇ったり「してからの動き」はよく出来てた。特に最初の階段を降りてくるヒロイン、からぐるっとまわりこんで台所に行くところとか。
 学校の入り口に乗り込んで、から入ってくるシーンとか。
 カルチェラタンのあの吹き抜け構造で、あえて階段アクションがないことについては、代わりに踊り場で昇って/降りて、からアクションさせるのが抑えの効いているようにみえる=カメラを動かない落ち着いた雰囲気に寄与してたので、まあ、この辺はむしろ持ち味というべきか。
 オフィスの廊下をフィックスで撮って、ひたすらコメディタッチに展開するとことか。静止したシーンを丁寧に書けていて、そこはよかった。
 動きのあるシーンでいうと、旗を持ち上げるシーンの、縦+斜めの動きを意識した浮遊感は抜群。象徴的なシーンだけあって、ここにはアニメ的な飛躍が見られた。
 代わりに、最後半になって、三輪バイクが待ってましたと激走する!
 ・・・かに見せて、次のシーンで渋滞に巻き込まれて、動かない。この現実感、この冷えたアニメーションっぷり。そんなにオヤジのイマジネーションが憎いのか…?


 スクリプトと演出の話だけど、坂本九の「上を向いて歩こう」の直前に、「坂を下りて買い物行ってきて」とか、東京から二人で帰る電車で「ひとりぼっちの夜」と唄わせたり、お前らスタッフちょっとひどくね? 坂本九出したいだけちゃうんかと小一時間ばかし説教したく。
 あ、主題歌はよかったですよ。時代感は皆目だけど。


 脚本の話といえば、宮崎駿スクリプトに責任とってりゃ、ゲド戦記もこのぐらいまとまってたんだよなーと振り返れば悲しくなる。
 もっとも、宮崎駿のホンか、といわれるとビミョーなトコロがちらほらと。
 まずセリフで表現してなくて、表情や仕草で察してください、とかなり観客にあざとく迫るところ。
 この「あざとさ」が透けて見えるのは、理由があって、凹んだ主人公の心情を「なんか学校であったんじゃない? ご飯もおかしかったし」とセリフで状況を語らせてしまい、その後、主人公が布団に潜り込んでいるシーンをすっと導入しちゃうところね。ハヤオはこういうところ突き放すからねえ、もっと違う角度で語らせる。それかそもそもやらない。
 この辺、ハヤオ的ではない、教科書的な、と感じるところだけど、こういった描写には良いところもあって、この手の作中の因果の逆転を上手く使えているのが、娘がドラマのキモになる質問をして泣きついてくるのを抱きしめるお母さんが、なぜ娘が泣きついてくるのか、なぜそんな質問をしたのか、をはっと察するところとか、学生同士がけんけんがくがくやりあってる集会場で生徒会長がいきなり唄い初めて、みんなも付和雷同の合唱。観客が「?」となったところで、次のシーンで校長がやってきて、「ああ、教師を上手にごまかしたのね」って分かるシーンとか。
 ちょっとあざといんだけど、昨今、口悪い映画ファンから「最近の観客はセリフで全部言わせないと分からんアホばっかになった」と言われる中、マアマア分かり易く、「アホな観客」と「口うるさい映画好き」双方を説得してたんじゃないかな。(アホな観客を教育する+したりと教えて優越を感じる映画ファンの構図を思え)
 なんせこの辺が実に教科書的だった。


 一緒に観に行ったメンツからの指摘で面白かったのを転がした話。
 ヒロインはママにべったりなんだけど、相手役がお父さんっこなのね。
 このバランス感覚がよくって、宮崎吾郎が上手く分裂できてたよね。基本的にオカンは素晴らしい。が、お父ちゃんも、打てば結局響くんだよ、って辺りが、なかなかバランス良く家族賛歌してるなーと。
 それから、学生運動の話ね。当時、大学生が高校生を利用して、血みどろになった学生運動だけど、「大学生」がスパッと要素から切られてるのね。OBは新聞で出てくるか、建材を提供するだけに留まる。つまり、「青年期」としてのモラトリアムの猶予を引き受けているのは、当事者である高校生で、後はいきなりオトナ=社会に接続してる。さらなる中間層としてのOBとの軋轢がない。これで、神田カルチェラタン事件みたいなそもそものモデルから断絶されて、時代的な生々しさを失った代わりに、アイディアルな学園風景となっている。だから、最後のスタッフロールで「押井守に捧げる」ってテロップ出ないかハラハラしたよー、ところでこの作品について当時のリアル世代ってどういう感想もってるんだろう?
 

 スタジオジブリの映画って、誰に見せたいか、が明白なことが多いんだけど、この作品も分かり易いのね。ほんとに今の学生さんに見せたいんだ! っていうのが分かる。
 その分、ちょっと描写が記号的、というか表層なんだよね。シナリオも、ドラマ性も、1963年である必然性とドラマの構造がいまいちマッチしてない借り物感が、そういう意味では、むしろ味わい深い。

 記号の話でいうと、相手役の男の子が序盤に包帯巻いてるのって、絶対に後から差し込んだシーンだよね。制服+学帽でキャラの見分けがつけにくいから、分かり易い記号として取り込んだんだと思う。事情をセリフで説明するけど、むちゃくちゃムリヤリで浮いてたもんなあ。
 そういう意味では、主人公の女の子は「映画に出てくる子どもってのは普通でいいんだけど、ほんとに普通であってはいけない」というアンビバレンツを表現するまでもなく、表現できてるので、ヤロウを描くって大変よね。


 押井守の話が出たので、ついでに気になったのが、音響設計おかしく感じたなあ。これは劇場の設定がおかしかったかもしれないんだけど、全然立体的じゃなくって、基本的にずーっとスクリーン前面からの音がほとんどなの。
 スカイ・クロラみたいなリアルで包み込むような音響配置も、あれはあれでおかしいんだけど、例えば、集会場なんかは背後からもっと音を出さないと、あの空気感、臨場感が全然ないのね。なんつーの、TV放映前提です、明日にでも金曜ロードショーで流します、みたいな。


 後、どーでもいい話なんだけど、新聞で見切れた単語で「女装」ってあって、それがすっごい気になったの。なぜ女装? WHY? あの哲学青年が女装するのか? 花柄の衣突きつけられたし、とか思った。
 さらにどーでもいい話なんだけど、弟君がヤバイぐらい存在感なくって、なぜ入れた感がすごかった。もういいじゃん。元々まとまりのない原作を尺に収まるようにいじってるんだし、だから、性別逆転してるヒトもいるし、もっというとお母さんもおばあちゃんも性格全然違うんだし、弟君いなくてもいいじゃん。妹ちゃんが役柄全部持ってちゃってるんだし。
 おばあちゃんの性格は、「花咲くいろは」の女将さんといい、やっぱり時代なのかなあ。
 一方、お母さんは、宮崎駿的なワーキングレディよね。ただ、一緒に観に行ったメンツ曰く、「宮崎駿ならもっとバリバリ働いてるようなキャラにしてた」。確かに。とすると、あのお母さん像は、ゴローちゃんのおっかさんなのかねえ。同時にハヤオの奥さんでもある。

 

  • まとめ

まあ、宮崎吾郎もなんだかんだでしっかり2作目では手つきも良くなったし、一方、ゲド戦記と続いて、お父ちゃんとボクの話になっちゃてるので、3作目はきっちりファンタジーやってほしいですね。オヤジ抜きで。でも、ダメかなあ。鈴木敏夫がジャマするだろうなあ。
 じゃあ、鈴木敏夫的なキャラを悪役にして殺そう。今作でオヤジとの和解は済んだと思うので、次は「VS 悪のプロデューサー編」だ。
 ゴローちゃんの戦いはまだ終わらない!