「進撃の巨人」と「エヴァンゲリオン」についてのいくつかの

進撃の巨人」がアニメ化し、かなり好評らしい。
らしいというのは、実際の所、そのアニメ版をお目にかかったことはないためで、はてなブックマークtwitterのタイムラインにあがってくる程度の情報を見ての感想なのだけど。
ところで去年は、「エヴァンゲリオンQ」が発表され、相当な物議をかもしたのは記憶にあたらしい。ごく最近「エヴァQ」のBDも発売されたばかりだ。
そういえば、「エヴァンゲリオン」と「進撃の巨人」についてはその類似についていくらか喋ったことがあったな、と思いだしたので、引き続きこれらについてダベってみたい。

http://togetter.com/li/77561 (人様がわざわざまとめてくれてる「進撃の巨人」のtweet一覧)
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20110222/p1 (id:izumino氏による「進撃の巨人」レビュー。このエントリーは、氏のエントリーに対する返歌になればよいな、と考えている)

【 1:「エヴァ」という鮮やかな事件 】

エヴァンゲリオンが致命的なまでに新しかったのは事実である。
そこを認めてしまうところから始めるのだけども、エヴァンゲリオンがいかに魅力であるかについては方々で語り尽くされているので、わざわざ改めるまでもないし、「エヴァがそれまでの特撮・アニメ・映画・物語のパッチワークである」ということもまた、繰り返すまでもないと思うので、くどくどと書き連ねることはしない。


ところで、シェイクスピアでもプロップでもキャンベルでも大塚英志でも、誰の言葉でも構わないが、物語の構造にはおよそ決まった形がいくらかあるだけだという。
いいや、そんなことないだろうと思うかもしれないし、何をいまさらとか思うかもしれないけれど、ええい、黙れ黙れ。そういう風に決まっているのだ。そういうもんなんです!
・・・つまり、男と男が殴りあったら、夕日を前に肩を抱き合い、お互いの健闘を讃えねばならんのである*1
・・・なんにせよ、物語の構造はそれほど多いものではないのだ。そのことについて、批判は受け付けない。広く民話などを求めて、狭く共通項を抜き出せば、そりゃ、まあ、そうなるわな、とかいう野暮い話も置いとくとよい。


その物語の類型の少なさ、貧しさとは我々人間の精神が貧しいことを意味する。(といったのはバルトだったか。ロラン・バルトは、そこから氾濫し、交雑する記号の放埒な豊かさを見出したのだけども)


そういう意味で、エヴァンゲリオンとは物語の力を信じていなかったのだ、ということができる。
過剰に注ぎ込まれたモチーフが、やがて物語の構造という屋台骨をへし折ったのだとも。
そして、モチーフ=作られたキャラや設定*2が、その土台である物語を離れ、それ自体が力をもったのだ。


大塚英志は、「物語消費論」において、ビックリマンシールを引き合いに、消費者が物語をどのように消費するのかを分析した。それによると、
「1,ビックリマンシールの裏に書かれたキャラ設定が、
 2,いくつものシールを集めるなかで、結びついて『小さな物語』となり、
 3,その『小さな物語』がさらに集まって、『大きな物語』を形成する」
 そのことに消費者は喜びを見つけて、ビックリマンシールを購入する。

ならば、エヴァにおいて、筋道だった理路を示すはずの物語は、その不完全性・不充実性により、それ自体で完結し、信頼に値する「大きな物語」ではなく、「小さな物語」だったのではないか。
そして、「大きな物語は不在である」と作品自身が示したことについて、消費者がこぞってその穴を埋めようとして創作や消費に勤しんだのは、エヴァが(現在進行中の劇場版が作られるより前から)長きにわたって巨大なマーケットだったことからも明らかだろう。


つまり、エヴァにおいて「物語」とは、本来なら「物語の従属物」であるはずのキャラや設定と同価にすぎなかったのだ。
それはまさしくビックリマンシールのように断片で構築された市場的産物であり、なまじ物語としての体裁を整えているがために、とっつきやすさととっつきにくさが混在する摩訶不思議なデザインとなっていた。
この欠如したデザインは、宗教やギャンブルへの依存がそうであるように、それを埋めんと躍起になるオーディエンスによる劇の謎解きを狂熱させ、その狂熱は莫大な消費を生み出したのだ。*3


ともあれ、製作者が、意図をもって、あるいは意図せずに断片化したキャラ・設定が結果として大量の「物語消費」を促したのだ。(そういえば、大塚英志「物語消費論」の改訂版もまた最近、出たばかりだった)


もっとも、「エヴァが新しい」と強く意識されるのは、エヴァが巻き起こした様々なものが、決定的に事件であったからだろう。製作委員会という方式、OPのフラッシュバックをはじめとする技法。物語を彩るキャラクターと、過剰なセックスと暴力/破壊描写。SF・オカルト・心理学用語を大胆に取り入れた背景設定。(これが夕方に放映していたという事実が趣深い)
それらが新奇であり、エポックなものとして、社会現象化していた。


しかし、あるいは。
「歴史とは思い出である」という小林秀雄の認識を援用すれば、「伝統」とはそれが失われる間際になって、ようやく噴き出してくるものである。
思想において「伝統」が意識されるときというのは、止揚のないままに新しいものにとってかわられるときである。それは断末魔だ。
日本において、明治の開国以来、持ち前の島国根性が為したのは、ひたすら新しいものを内側に取り込んでいくことだった。それまで内側にあったものと、外側にあったものを峻別することなく、したがって双方について自覚化されないままに両者を習合せしむる。それまで内側にあったものとの小さな軋轢が「伝統」のか細い悲鳴だ。*4

エヴァを思い出深き「伝統」として捉えたときに、予想もしなかったエヴァのリメイクが、それでも力強い「伝統」の断末魔であるならば、ポストエヴァが現れているということだ。
いささか恣意的な誘導ではあるのだけど、現状、ポストエヴァの筆頭は「進撃の巨人」だと考えている。

(つづく)

【 2:「進撃の巨人」 鮮やかに反転して 】

【 3: セックス・暴力:アドレッセンス・クリシェ 】

【 4: 外側と内側・意味への意思をめぐる 】

*1:これは物語上のお約束で、物語の構造ではないことは言うまでもない。「お約束」というのは、特定圏内における文化的/具象的コードである。より普遍的/抽象的なコードである「物語の構造」より幾分かは枝葉の部分だ。もっとも、最近は中国のアニメでもOPで若者がダッシュしているらしいので、民族的なコードであるかは議論の余地があろう

*2:または製作者が抱える現実的問題や文学的詩情の発露、心情/信条/身上の吐露、つまりは思想というやつ

*3:それとともに多くのエピゴーネンを生み出しもした。そういや、「エヴァのパクリじゃん」ってよく聞いたよね。最近はあんまり聞かないけど

*4:やがてこの中から、過激な排他的保守的な思想が現れるときは、しばしば国家・政治的危機のときであるのは、世界共通であろう