80年代的「強くなりたい」幻想と21世紀的「隠れたヒーロー」幻想論

※このエントリーはhttp://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20060413/p3にインスピレーションを受けた文章です。

  • 序論・80年代的バトル漫画とは。

 80年代は父権の打倒、あるいは親子の融和が大きなテーマだった。いずれにせよ、「父権性」が漫画の問題意識だったと思われる。例えば、梶原一騎の作品に、その典型が見られるだろう。
 「巨人の星」の星一徹(あるいは、マス大山)的な「分かりやすくでかい父親」像は「強くなりたい」幻想の源流となった。
 父権にまつわる問題は、要するに「子(=主人公)の着実な成長」についてであり、漫画という視覚的な分野においては「強くなること」こそがもっとも端的な「成長」をあらわす方法だったので、すごいパンチが打てたり、すごい剛速球が投げれることを描くことが、この時代の中核を担うこととなった。*1
 この「強くなりたい」幻想はやがて、「ドラゴンボール」を代表とした80年代後期〜90年代漫画にも引き継がれているが、ドラゴンボールでは「ひたすら強敵と戦う」ことを目下の課題としてしまったため、「着実な成長」が介在する余地を失くしてしまい反復的なゲームになってしまっている*2し、「ジョジョの奇妙な冒険」では第三部以降はキャラの成長を一旦、脇においてしまい、ゲーム感覚を突き詰めたかたちとなってしまう。
 また社会背景として、それまで存在した父権なるものは徐々に形骸化してしまい、分かりやすい強権というものを作者が描けなくなってしまった。

  • 本論・二十一世紀バトル漫画。


 父権は崩壊した後、「キレる十七歳」をはじめとした「心理学化した社会」によって、今度はヒキコモリ的性質の内省と葛藤の戦いが持ち上がってくることになる。90年代のことである。
 心理学は人の心を明確にしたが、同時にそれは「誰もが怪物になる」ということも明確にしてしまった。世紀末思想とあわせて、精神の肉体に対する優越がしばしば取り沙汰されるのはこの頃からである。
 また、父権という分かりやすい社会=外界とのリンクが小さくなったことで、社会と自分を繋ぐものは抽象の言葉、多義的な相対化された言葉を用いなければならなくなる。社会はうすぼんやりとして、反面、自分のイビツさが浮き彫りとなってしまい、やがて「世界の敵」が自分であるという結論に至る。
 これによって、自我の戦いが主人公にとって重要なテーマとなっていき、主人公の葛藤は、社会規範と個人的趣味のせめぎあいとなるのだ。


 現代の少年漫画シーンの代表作のうち、「BLEACH」や「NARUTO」の主人公は、それぞれ非常に危険な「(暴力としての)パワー」が内面に巣食っているという設定である。
 彼らは、守るべき日常風景をもっていて(ex.サスケとの絆、日常の生活)、その延長線上にうすぼんやりとした「セカイ」が見えている。そして、それらを侵食する外敵が存在する。
 その外敵を撃破し、世界を守ることが主人公たちには求められている。ブリーチにおいて、町を生贄に捧げようとする「大虚」たちはその典型であり、ナルトにおいては、目下、所属する国家(?)をたびたび侵犯する「大蛇丸一派」がそうである。それが一つの「強くなる」動機付けになっているし、そこにおいてあまり迷いはない。
 一方、「黒崎一護」や「うずまきナルト」はしばしば苦悩することがある。
 彼らは自分の属する共同体*3を守ろうという意識を持っているのだが、自分に内在する暴力性によって、共同体自体を破壊してしまう可能性を持っているためだ*4
 よって、「守らなければいけない世界」は、しばしば「壊してしまうかもしれないセカイ」となり、「強くならなければならない」が「あまり強くなってもいけない」という逆説的な抑止力も提示されている。


 では、作中における彼らの「パワー」とは、何であるのか?
 これを僕は、個人に内在するアナーキーの象徴である と考える。
 「なにかを破壊したい」欲望は原始的な発想であり、また幼児性の表れでもある。目に見える秩序が根ざす現代社会は、まるでキレイに積みあがった積み木であり、それを壊してしまいたいとなんとなく願うのはそう不思議でもない心理だろう。


 現代において、子どもたち*5は「世界」を破壊してはいけないことをすでに知っているが、同時に情報量の多い社会の中で育つ早熟な自我が、目に見えて秩序立っているはずの社会の不条理を次々に知ってしまう。
 その結果、
「世界は確実に大人たちによってコントロールされている」のだが、「セカイを支配するオトナたちもまた、コドモの自分たちと同じように問題点だらけである」と世界を相対化する。
 彼らは苦悩して、結論付ける。
「世界は目に見えて完璧なのに、どう見たって不完全だ」
 この悲観主義的な真理に到達する幼い自我は、幼いがゆえに真理に対して、消化不良を引き起こしてしまう。
 かくしてジレンマは生じ、アナーキーがその顔をセカイにのぞかせる。
「セカイを破壊して、まったく別の秩序を打ち立てるしかない」
 こうした願望によって出現するパワーはその性質上、従来の世界を根こそぎ破滅させる道に進む。
 これが主人公の根底に流れる「怪物的な暴力」の正体であり、その強権は、主人公たちの外敵と同等か、より上位の世界の敵であり、結果として主人公が世界の行く末をコントロールする破目になる。
 ここで主人公の内面世界が描かれて、社会規範に反する「暴力」と個人的実存が戦う論法が持ち込まれる。「暴力」は主人公を誘惑して、のっとろうとする大きなスケールを持つのだが、自我の中でパワーバランスが逆転しているので寄生虫的にすぎずに、結局、それに対する免疫力=抑止力が勝利するか、あるいは「お前もオレじゃねえの? ていうか、オレだろ!」と融和することで事なきをえる。共同体意識がそれを後押しすることもしばしばあるだろう。
 そして、セカイを破壊しうるパワーを秘めながらも、なんとか自制することで世界は密かに守られ続ける。
 主人公は内面の勝利によって自己を成長させると同時に「隠れたヒーロー」と化す。
 目に見える脅威(ex.黒い虚化、九尾化)に対して、目に見えない内面で勝利し、目に見える秩序ではなく、目に見えない秩序の守護者として、主人公は君臨するのである。
 こうしてみると、内面の葛藤がそのままセカイの行く末を決定づけるいわゆるセカイ系こそが現代ファンタジーバトルの本質であり、それは個人に内在する精神の不気味さをイラスト化するというトレンドによって支えられているものではないだろうか。
 というのも、現代では、80年代的な分かりやすいマッシヴなキャラ造形ではなく、先鋭化された精神のカタチがイラストされて暴れまわることで、読者はカタルシスを得ているように思われるからである。
 



 主人公はもはや単独で二面性を持たない。穏やかな善性を持つ。
 トラウマは背負わないが、代わりに使命を背負う。(ルサンチマンが正義とはならなくなる)
 そして、ほとんど誰にも知られないまま、世界を救い続ける。(その報われなさ、ひたむきさこそが正義となる。個人的趣味と社会規範が接合している)
 ヒロインはそんな彼の数少ない理解者であり、また戦友である。(ジェンダー問題の明白な浸透)
 テーマから、陰惨さが払拭され、「敵」にはむやみやたらとトラウマが付与されることはなく、愛すべき一面があるようになる。(致命的な対立構図にはなりえない)
 敵は一枚岩の組織ではなく、脆弱なシステムの総体として、個々が主人公達に襲い掛かってくる。しかし、数度の邂逅の後、彼らとは、しばしば和解する。(顔の見えない社会)
 極少数の仲間が主人公の世界救済の偉業を知る。強い連帯感のなかで新しい敵とも戦い、共同意識が養われる。(小さな共同体から徐々にその共同体を大きくしていく)
 老いた父=賢者(のメタファー)が出現して、しばしば主人公を誘導してくれる。(一線を退いて、距離を置いた団塊世代との融和)
 また、非常な存在である老人が主人公達の身代わりになるようにして、壮絶に死ぬとき、大変なドラマが誕生する(高齢化社会による別れの経験から)
  

*1:もう一つの中核である「変身願望」については、基本的に少年漫画につきまといつづけているものなので、ここでは割愛した

*2:こう考えると、息子である孫悟飯が軟弱化したり最強化したり迷った挙句、結局、父親を超えられなくなってしまっているのはテーマの問題というよりもマーケット的な問題だと思うのだが、うーん……

*3:ここでいう共同体は、友人や仲間など比較的小さなものである

*4:これはNARUTOでは、ごく最近になって提示された問題だが、それ以前にも。ナルトの知らない外部から、頻繁にその危険性を示唆されてきている

*5:ここでいう「子どもたち」とは字面通りの「子ども」とは限らない。大人未満の世界の全ての構成員である。また、「大人」の定義は「社会を司るシステム」ぐらいにしておく。そして、これは「父親」よりはるかに遠大な(中性的?)概念である