かみちゅ!(1〓10まで)

このアニメは従来のオチモノを変換させたものです。オチモノは「冴えない男の子に女の子が降りてくる」というタイプのものですが、ここではそこからもっと限定させてもらい、「冴えない誰かに唐突に分相応のなにかが降りてくるが、その誰かはあいかわらず周囲と折り合いつけて生活している」というものぐらいにしておきます。
おもしろいスタイルですね。
小説や漫画だとこういうのはたまに見かける(横浜買い出し紀行とかARIA,AQUAなど、いわば作中の「空気」を楽しむ類)んですが、アニメだと少ないです。
これは作劇上の問題、すなわち「単に生活を綴ると起伏や見せ場が作りにくい」というのが常に絡むからで(つまり、スポンサーから予算を分捕ってくる算段を組みにくいということでもある)、生活そのものに着目した作品というのはこれまでほとんど出てきませんでした。
例えば、ジブリのアニメにおけるノスタルジック(あるいはファンタスティック)な生活風景やパトレイバーなんかの押井守の一連の作品群におけるブサイクな日常というのは、作品の主題に対する添えものでした。
まあ、もちろん、それは「生活そのもの」が作劇としてアクセントにしかなりえない、という作画、演出、音楽(は微妙か?)などの従来の演出上の問題があったんですが、かみちゅの非常におもしろいのは、「生活そのもの」を作劇そのものの主眼に置換しているとことです。


つまり、三段論法としてアニメーションを語るならば、大前提(作品全体にあるべき作劇、アクション、フィクショナリティ)と小前提(テーマ以外のキャラの彩り、生活、リアリティ)が結論(総体としての作品全体のテーマ)を作るのに対して、むしろ、大前提と小前提がひっくり返ってるんですね。これは、従来ではありえなかったパターナリでして、それが何から来ているのかと考えますと、きっとそれは、いわゆる近年、アニメ業界に見られる演出や動画の技術の目を見張るような醸成と視聴者の質がそれを可能にしたんじゃないかなあと、そんなことを思います。


以下、気になった話への簡単な感想

  • 一話について
    • 神様で中学生というコンセプトを前面に押し出した怪作。変態的ともいえるキャラのこまかい動作、かけあいは笑うしかありませんでした。技術の無駄遣いにも程がある。
  • 四話について
    • これは評価に非常に困る話で、各パートの元ネタが分かればおもしろかったんだろうけども、「生活に主眼を置いた話」の中では異色作で、このタイミングでの投入に正直、疑問だったので、あまり評価できませんでした。
  • 八、九、十話について
    • それまでの平凡な女の子が神様になったことに始まる奇跡の話から、神であり人である主人公の万能性、周囲の彼女に対する便利使いに対する批判が入りはじめることがおもしろい。主人公の少女の人間性(リアリティ)←→神性(フィクショナリティ)が静かに対立して、最後はかならず調和をとろうとしているのが、なんとも神話的、あるいは説話的であるように思う。