ローゼンメイデン(全話) および ローゼンメイデン・トロイメント(九話)


 正直ナメてました。萌え=記号=人形という等式でくくってたので。まさかそれを逆手にとっているとは……。
 原作である漫画版は絵としてのディテールが面白いんですが、いかんせん内容が荒すぎるというか、不思議の国のアリスと論理物理学を適合させる流れに整合性がなくて、ラプラスの魔(古典的な決定論の権化)とNのフィールド(裁量的な量子論の場)が共存できるワケねえだろ。とか。無意識が全体としての存在の総和であるとして、じゃあ、どうやって個々の存在の自我境界線を引いてるんだよ、とかいう無粋なツッコミを入れたくなってしまうので、あんまり評価してなかったりします。


 その流れをモロにうけてしまったアニメ版の一作目はキャラクタの掛け合い(これは翠星石を中心として非常に楽しかった)はともかく、キャラが表層的な記号的な配置を終盤(水銀燈との決着が近づくにつれすごくよくなったけど)まで超えておらず、内容それ自体はそれほどおもしろいとは思わなかったんですけど、二作目のトロイメントはアニメオリジナル路線を走るということで、うってかわってこっちは一作目をしっかり踏まえたキャラクタの心情が細かく綴られていて、すごく楽しいです。


 特に翠星石ツンデレになったのとかは、非常に時流をとらえてて上手いなあと唸りました(そもそも主人公を気にかける動機が不明で、展開として唐突だけど力ずくで丸め込んだところとか。そうですよ。これが正しくキャラ萌えの力。いわばジョジョ第五部における「パッショーネはかく語りき」メソッドの見事な援用です)。
 個人的には第八話で蒼星石の「人形は人間を楽しませるためのもの」という主張を姉をはじめとした「どこまでも人間的であろうとする他のドールとの比較」を絡めて、もっと突き詰めて語ってほしかったんですけど、話数的にもそろそろペースアップしないとダメだったようで、やむをえずという感じです。


 多分、今シリーズは十中八九、夢オチ(かそれに限りなく近い締め方)になると思うんですけど(これは原作モノの宿命で、折りよくNのフィールドっていう設定もあることだし)、アリス=完全存在=どこにでもあってどこにでもない=すべてのドールには全ての尊さがある、というテーマをどこまでえぐってくるのか楽しみです。