自分語りがウザイ理由とか。


 ネット巡りしていて、たまに目にするのが「ブログとかサイトで目にする自分語りってウザイよね」っていう話で、それは厳密な論理とかを超越して、いわば生理的にその通りなんだろーなーと共感しつつも、絶対に「自分語り」ってのはなくならないんだろうなーとか思いました。まあ、「自分語りにツッコむ自分語り」っていう足元の掬い合いとか、揚げ足の取り合いとかはさておいて、じゃあ、なんで「自分語りはウザイ」のに「自分語りは減らない」んだろう。という話。


 多分、インターネットを好んで利用する人っていうのにはこの場合、二種類いて、情報を求めている人間と同類を求めている人間で、そのうち「自分語りウゼー」と思う人は、なによりも自分にとって有益な情報を求めてる人じゃないかなーとかってのはすぐ思いついたんですが、より厳密に「じゃあ、他人の話は有益じゃないのか?」と考えると、多分、そういう有益な情報拾いに来ている人は、主観まみれのデータが欲しいとは思ってないっていうのもあるだろうし、なによりも「自分語り」っていうものの語り口のまずさっていうのが問題になるんじゃないかしら。
 とりあえず僕個人としても「オレは〓〓オレは〓〓」オレすげー。オレかっけー。オレ頭いー、露骨にオレって特別じゃん? みたいな論調には「それ、あなただけじゃなくて、多分、みんな思ってますから」と論理を超越して、生理的に嫌悪を感じツッコミいれたくなってしまい、即座にブラウザを閉じてしまいます。
 
 じゃあ、どういう「自分語り」なら許容できるか、という話ですが、ちょっと話を飛躍させて、有名な「ホーリーランド」の作者の自分語り、通称「森節」なんかは初めて見たとき、笑いが止まらなかったわけですが、それというのも、この「森節」は漫画的なおもしろさを確かに有していて、「これは全然ありだよなあ。この自分語りはウザくない」と感じた経験があります。
 要するに、自分語りがウザくない要件っていうのは、

  1. ニュアンス的にでも、自分語りが現在進行形の話にのっかっていること

 がなにより求められていて、出だしから「オレの話を聞けよー」っていう喋りには、それがどれだけいいことを言っていてもその人に興味がないと読む気にならんだろうし、「壁に向かって喋ってろ」と殺伐とした匿名社会の悪意が突き刺さることにもなるんだろうなーと思います。
 媒体としてある程度、整った形をしていることが前提にあって初めて、「ウザクない自分語り」っていうのは成立していて、例えば、ここから僕が自分語りを始めたとして、どんな自分語りだとウザくないのか? ということをちょっとでも考えることが必要なんじゃないかなー。誰に向けて主張しているのかも分からないのに、オレオレオレだよーとのっけから「オレ」が露骨なものが「ウザイ自分語り」とか、多分、大抵の誰しもが精神的に参ったときに考えるようなことをストレートで語る自虐なんかはきっと嫌われるんだろうなあとか思いました。多分、そういう風に自分語りに向かって突っ込む人っていうのは、そういう自分語りをしたことがあって、なおかつ、自分語りをするほどには考えなしではいられなくなったひとが、振り返ればやつ(=昔の自分に似た誰か)がいると、生理的に「ギャーー! 悪霊退散! 悪霊退散! 迷わず死ね!」と言いたくなるんじゃないかしら。
 んで、こういうツッコミを見て、日記とブログの垣根って何だろう? とか、別に誰に迷惑をかけているわけないからいいじゃないか、っていう意見を思い浮かべる限りは、およそ自分語りってのは(その質を問わずに)まず減らないんだろうなーと。
 じゃあ、なんでウザイこと極まりない自分語り、日記に書いても差し支えない内容をわざわざネットに配信するのかっていうとつまるところ同類探しなのか、レスポンスを期待してるのか、まあ、なんでもいいや。なんだか眠くなってきたし、早く風邪治らねーかなあ……