雑記。

 
 最近、雑記ばっかだなー。そろそろ考察とか論考とか名を打ったいつものくだ巻きたいなー。
 とか思うんですが、最近、暑くて、頭が回らない。

 
 ヒッチコックの作品とかキートンの作品とか見てます。後、マイアミ・ヴァイスを風呂に入りながらダラダラと。
 これらの作品を眺めながら、非日常のセクションと日常のセクションが高度に交じり合ってる作品をリストしたいと思ったり。
 最近、よく非日常と日常の二項対立、みたいな話を見かけるんだけど、段々とそういうものから興味がそれてきてるんだなーと自覚してたりするので。
 手前味噌ながら、かつてツンデレを語ったとき、僕もまたこの手法を現実と虚構という二項対立で捉えました。
 今でもツンデレはキャラとして「ステロタイプのキャラクタを同一キャラの中に二種類含ませることでごくわずかに複合的な人間性を指し示すこと」を目的としたものであり、そのシチュエーションの目的は「意外性を非日常的な光景で演出することによって、前後のテーマの切り抜きをする」ためのものだと思ってるんですが、海原雄山烈海王=極上ツンデレ説、という目的論的な解釈が(ギャグとはいえ)大勢に受け入れられた辺りから、ちょっと二元論で捉えきるのはどうにも難しそうだなーと。
 
 
 次に、ぼんやり考えてることは、日常の異質さ←→非日常の凡庸さという二元論の中にあるさらなる二元論とか。
 これで日常の意味ってやつを、よりラジカルに追求できねーかなー、とか。
 特に、我々の日常それ自体がすでに異常である、という発想をなんとか補強できねーかな、などと。
 例えば、大災害が発生した時に、よくフィクション性を帯びた何らかの比喩が行われますが、「まるでフィクションのような〜」という文言は、精神的バランサーとして現実というモンスターの唯物的実利的咀嚼行為に他ならず、それは主観的現実ではなく客観的現実に対応する客体的判断でありながら主体によって認識されるというギャップを生み出しうるわけです。カントいうところの物自体が経験を含めた主観一切によって汚濁せしむるがゆえに、我々は真理なるものを知覚しえないが、真理たりえずとも近似としたの真実は大多数の恣意的同意によって合成されて立ち上ってくる。
 例えば、パトレイバー2が、劇中にある異物としての戦争風景と当たり前の平和の対立を描きながらも、実のところ欺瞞に満ちたフィクションとしての平和が、やがて全てを浮き彫りにするリアルの戦争に置き換わった瞬間を切り抜いたメタ・ツンデレアニメだったことを考えれば、色々考えることも多そうだけど、かったりーからやーめた。