ミス・メルヴィルの後悔(著:イーヴリン・E・スミス)を読む。


 中年女性というものは物語の中心から不思議なほど除外されてきた存在だ。彼女らは、(賢母←→悪母といった程度の差こそあれど)保護者的なスタンスから一歩も出ない。
 おおむね、女性賛美をする男性も、彼らが賛美する女「性」とは、おおむね健全な少女的感性を持つ偶像か、功利主義的なビジネスウーマンにすぎないように思う。つまり、その意味を還元してしまえば、サドかマゾか、自身の性的嗜好に帰結する。(ああ、これだとマザコンルートはどう解釈したものか)
 性的欲求を満たすための女「性」に中年女性は恐らく含まれまい。かつてウーマンリブを戦った醜い*1闘士たちに、セクシャルなイメージは希薄だ。


 中年女性の扱いにくさは、年を経るにつれて、嫁姑の確執のあらましを知ることで分かるだろうし、会社社会の「お局さま」という権力者の陰湿さでも分かる。フィクション的な虚飾がそれらにはつきまとうとはいえ、中年女性はおよそ扱いにくい、彼女らは女「性」から隔絶されながら、それでも「性」にしがみつく、そんな境界線上の存在だという発想はしばしば見受けられる。そのジレンマが、彼女らは自身で物語を抱えているために、他の物語を拒絶しているように見える。だから、ほとんどの物語の中で、彼女らは異彩を放つ存在であっても、物語に大いに関わることはほとんど見られない。*2
 では、身勝手でわがままな中年女性にフォーカスした作品はないのだろうか? というと、ないはずがなく、この「ミス・メルヴィルの後悔」もその一つである。


 ミス・メルヴィルは必死だ。生き汚い。彼女はかつて名家の令嬢だったが、その家が没落してしまい、いまや無銭生活者で、プライドだけはやたら高いオールド・ミスだ。
 生業だという自身の絵はまるで売れる気配を見せず、エレガンスが喪われていく世のうつろいを嘆くばかり。どうやって食っているのか、というとパーティもぐり。上流階級のパーティにもぐりこんでメシを頂戴し、食費をまかなっている彼女の姿は客観的に観て、あるいはいささか偏狭な主観に立てば、汚らしい。
 
 
 この物語は二種類の構成で成り立っている。一つはミス・メルヴィルの周囲のエキセントリックな友人たちとの対話。都会の洗練された上流階級であるはずのご友人たちはどう見ても田舎臭い。彼らは野心をむき出しにして、ゴシップに血道をあげて、対外的な名誉欲にとりつかれている。上流ムラ=閉鎖社会の悪循環。
 ここでは、中年の醜悪さが描かれており、ミス・メルヴィルはそれらから一歩引いた立場として、読者とともに喜劇を眺めている。


 そして、もう一つがミス・メルヴィル自身の問題だ。彼女は没落貴族の娘で、順調に年をとってほとんど誰からも女「性」として看做されなくなり、売れない画家で、ついでに殺し屋をやっている。その中で描かれる彼女は、非常に意地汚い。生活がかかっている身特有のがっついた雰囲気が彼女には漂っており、描かれる心理描写もなんだかよく分からない焦燥感に満ちている。
 彼女は、生活するためには殺しをやるしかないのだが、絵を売る見通しもつかないので、「やりたいこと」「やらなければいけないこと」が乖離していくことに悩み、ますます追い込まれていく。中盤から終盤にかけて、トラブルが続出し、耐えかねた彼女がヒステリックになって、かたくなになり、やがて鬱になっていく様子はひどく克明な、生の姿だと読むものに感じさせる。


 物語は終盤にさしかかった途端、読めてしまうのだが、発生するサプライズやそれまで伏線を回収する書き口は極めてスマートで、終盤に出てくる極め付きに田舎臭いキャラクターのやりとりとのミスマッチが楽しい。続編の「帰ってきたミス・メルヴィル」と合わせて読むのがお勧め。


 それにしても、中年女性はどうしてこうもゴシップが好きなんだろうか。これだけはどうにも理解できないでいる。やはり中年女性はぼくの埒外の生き物だ。

*1:必ずしも容姿的な意味ではない、マイノリティ=反逆児は常に一般的保守的「良識」から見れば、汚らしく写るものだから

*2:あるいはこれは、ゴシップの主が、真実には届きえまい、という作者なりの良識がそうさせるのかもしれないが