先日のダベりの続き。


A「そもそも演出って何なのかしら?」
D「つーか、優れた作品は大抵、演出がいいわけで、単に「演出って何?」っていうのは相当、表現しづらくねー?」
C「いや、SFなんかは分かりやすいよ。『演出』と『題材』の差は、たとえば、マイケル・クライトンとイーガンの差だ。あるいはその別角度としてサイファイとSFでもいいかもしれない」
A「クライトンの『SFじゃない』バナシは、あの人がSFコミュニティに入ってなかったことからくる牽強付会じゃなかったっけ?」
D「やめろって。それやりだすと、日本での『ソリトンの悪魔』からくる囲い込みも絡んでくるから」
A「え? ソリトンの悪魔がどうしたの?」
B「まー、アレだ。ボクらに分かりやすくいくと、『ガンダムはSFかどうか?』だよ」
A「いや、だから、ソリトンって?」
C「つーか、ガンダムはSFかどうかは、ここでは問題にするの? しないの?」
D「しません。おもしろけりゃなんでもいいんだよ。正しいかどうかはスコラマニアにでも食わせてろ」
A「あの、ソリト――」
D「初代ガンダムで、ホワイトベースが大気中でぶいぶいわせたのは、ドラマ重視じゃん。つまり、演出の問題。でも、ミノフスキー粒子で是とされるまで、それはSF的にダウトだった、とされている。クライトンでいえば、彼はどちらかというと社会問題へのカウンターアプローチとしてSFを題材に選んでいるように見える」
C「つまり、演出ってのはドラマのことなのね? 事の是非のうち、是と非の論拠をあげるのが『題材』で、『演出』は事の是非に決着をつけるベクトルのこと」
D「例えばさー、イーガンなんかは明らかにSF的な手続きが主題な作家だよね。そこがおもしろいし、SFファンはそのアプローチルールを楽しんでる。彼にいわゆる「ドラマ性」を求めているひとは、そりゃ、いないことはないだろうけど、少ない。SF的本質つーか、科学的素養から始まるヴィジョンの飛躍と決着が目的になってる」
B「ガンダムでいえばSEED辺りで、艦艇がゼロ距離から攻撃喰らってもムテキだったのに対して、逆シャアとか劇場版Zでデコイまきちらしたりいろいろやってたみたいな差か?」
C「んー、そうなってくると『演出』って言葉でこんがらがってこねえ? 線引きの問題じゃん」
A「また定義論かよ……」


 以下、要約。ただし、意見の一致を見なかったところが多いので暫定的なメモ。

  • 演出のパターン類型についての概略メモ。
    • ディテールの演出。
      • うるさ型のマニアが注目しやすいポイント。『題材』と混同されやすいが、主題と直結しない末端部分。作品として神経をめぐらせているか、というアピールポイントでもある。まっさきに意見が一致した。
    • 誇張(巨大化)の演出。
      • エヴァなど、メカニックが露出する作品で多用される手法。恐らく映像作品において非常によく使われるが、我々は本職ではないので意見がバラバラ。留保。
    • 緊迫の演出
      • 押井守ヒッチコックなどがよく使う手法。「パト2」でのワンカットで行われる長い会話や、「眩暈」において、二者間の対話でカット多用することで、画面を狭く見せていくやりかた。ミステリでいえば、論理の積み重ねで登場人物の間で意見が縦走していく流れなど。「涼宮ハルヒの憂鬱」で、冗長ともいえるような世界観を説明するために応用されたのが記憶に新しい。
    • 弛緩の演出
    • 意識的に冗長な空間をつくる演出。ギャグパートや日常空間の構築に使われる。緩急でいえば「緩」の部分。具体的例示において意見がバラける。ただ、アニメ版のfate/stay nightの日常パートはこのテの演出で、出来としていまいちだったというのは一致。
  • 空間把握の演出。
    • レイアウトとしての演出。重大な意味を含む画面構成やプロットを際立たせるために使われる手法。ヒキやタメのために使われる。物語として最も重要な手法。この演出は確かに存在するが、「題材」との差異で意見がバラつく。
  • 今後の課題

 各メディアにおける演出の差異をどう捉えていくのか? おおまかに体系化する必要がある。

  • 「演出に限界は現れるのか?」

 この主題については、一旦、保留することに。
 ただし、受け手における「題材」の経験値の差が問題とされなくなっていく現代カルチャーのように、いずれ誰しもが「これは演出だ」と理解してしまうような普遍的な手法が確立された瞬間、「演出」は終わるというのは一致した見解に。それは、テレビ番組でテロップを眺めることに飽き飽きとしているにも似ている。
 そうなると次にやってくるのは、新しい「媒体」の選択であり、より共感的で、体験的な「媒体」が次の「題材」と「演出」の担い手になるだろう。
 口伝や劇や小説や漫画や映画が次々と現れて既存のメディアを取り込み、洗練されて古びていくように、現代もまた新しいエンターテイメントメディアの過渡期だろうから。