うのたん
最近の宇野常寛はあんまり叩く気にはなれなくなってきて、なんでかっつーと、昔の芸風は「いいから、てめえの青いケツ、出せ! 「オタク」で喰ってるオタクライターのくせにごちゃごちゃガタついてんじゃねえぞ、ボケ。波打ち際で韜晦してんじゃねえ。深瀬に突きおろしてぶっ殺すぞ! ボケ。殺す、じゃなくてブッ殺す!」と殺戮の匂いしか醸し出していなかったのですが、ダ・ヴィンチで顔だししてからはそーいう怒りも和らいだし、インタビュー読んでみると結構耳を傾けられるかなーと思えるようになってきた。
ひとつにはうのたんが提示してきてるのは、オタク*1がひっかかるものをぜんぶフラットな評価軸にもってくるって発想で*2、そいつは確かに今風かもしれないと思い、ちょっとおもしろくなってきた*3っていうのがあるし、
もう一つには前述した「顔だし」という行為に覚悟の量を感じたから。
顔出ししてからのうのたんは変わったね。オレの見る目が変わったのかもしれないけど、やっぱ腰の据わりを感じるね。
今までは浅瀬でぱちゃぱちゃやってて、「あのさ、そーいうお遊戯的なことはヨソでやってくんない? 誰だか知らないんだけど、オレ、日々の生活でクソ忙しいんだよね」とか「どこの馬の骨だか知らねえが、身ぃ削って働いてる身からすりゃ、てめーのカミツキなんて実家の犬の甘噛みにも劣らぁ! ハッ! こちとら、趣味と実益は切り分けて踊ってんだよ! てめーはせいぜいダイガクセーちゃまやらコーコーセーしゃまに向って説法こいてろ! ウラチュウニボーイ」とか思ってたんだけど、
最近は彼の考える「ネクスト」の落とし所が見えてきて、すなわち、目につくぜんぶを同じテーブルにのっけて、「こいつがオレの考えるベストだ!! あらゆる点でみて、オレが選ぶベストなんだよ!」と選んで宣告するそういうスタンス。
つまるところ、「オレ」を中核とした「ありありなし(フィクションありノンフィクションありジャンルなし)」の視点。
(参照URL:http://supportista.jp/column/20)
嫌いじゃねえぜ。そーいうの。
「オレが選ばなかったものは偽物だ」視点があいかわらず鼻につくけど、悪くねえ。まったく悪くねえ。
そういう批評屋も世の中には一定数必要だし、宇野常寛もそんじょそこらのオタクじゃねえんだから、最低限いいものは運んでくるでしょ。
そんで、そっからまた選りわけていけばいいわけだし。
「それがぼくのライフハック」ってわけじゃないですが 時間もろもろのリソースを有効活用するにはこのての連中をうまく使い分ければいいと考えるので、宇野系の批評屋がもっと出てきてくれて、特にうのたんには末永くがんばってほしいと思うのです。
*1:つーか、彼の評論対象者は彼の活動母体を鑑みた定義だとネットをベーシックにした顔のない趣味人格でしょ、それが今ではたまたま「オタク」って呼ばれるだけでなんらかの個人にケンカうってるわけではないっぽい。んだけど、Twitterでもさらっと書いたけど、やり口のぶっきちょさゆえに「オタク」の大部分に喧嘩ふっかけてるとしか思えないんだよね。
*2:要は政治とかアニメとかマンガとか料理とか経済とか社会問題とかがなんもかんもごっちゃになってる世界観ね
*3:まあ、反面その語り口には問題があって、とかくレッテル貼りと雑な印象論が先立ちがち。だから、SFマガジンの「ゼロ年代」はもうgdgdで議論の枠がギリギリフレームを保ってるだけで明らかに収拾つかなくなってるし、そもそもこんだけ世の中、細分化してミクロだミクロ。方々でマクロな議論は有効ではないっていわれてるのに、はたしてどーなんかしら?