「スカイ・クロラ」を見たよ。

すごいものを見たと思った。
これは視点の映画だと思った。

或る状況が立ち現れて、そこに或る人格がいて、それに起因する無機物と有機物の営為がある。
そして、その営為はデザインされている。
不足はないが、充実も、ない。そんなデザインは、完成度をいたずらに高めてはいないのだけど、目的を完遂するようには出来ていないのだけど、それでも確かに世の中を構成する一部として造られている。その営為が残骸になっても、わずかの断片となって遺こっていく。
その主体がデザインされているがゆえに、客体もまた効率化される。デザインされているがために、営為をたやすく繰り返すことができる。
デザインの名前は「キルドレ」といって、ヒトの一種で、大人にはならない。でも、子供でもない。老いはしないが、死なないわけではない。
アンビバレンツな淡い何者かだけど、何者でもない。

彼らの繰り返される営為には予感を漂っている。終末の、原初の、予感だ。

彼らにとって終末と原初は、もうバラバラにはやってこないのだろう。今日がそのうち昨日となり、明日も同じように今日となることを終わらない生のなかで了解していて、時間という感覚はどこかに消失しているからだ。
だから、彼らからは目的も消えてしまう。不可分の時間と生がそれぞれ有限ではないからだ。あらかじめられたデザインに従う限り、安寧が約束されている。その泥のような安寧には、終末も原初もない。今ここにあるということだけが残されていて、それで満足する。ありうる予感は、繰り返しの差分を目にする他者だけに残されて、彼ら本人には残らない。
他社は彼らに期待するが、彼らは彼らに期待しないのだ。

だけど、稀に今ここにあることが残されるからなおのこと、終わりを望むものが現れる。
終わりが、始まりを意味するという予感を確かに感じ取り、何事かに突き動かされるものだ。デザインからの逸脱を目指すものだ。

無論、このデザインへの反逆者の営為も、結局デザイナーたちの思惑かもしれない。
しかるべき状況を用意し、しかるべき人格を用意し、しかるべき無機と有機を配置すれば、高確率で生まれ招じるものなのかもしれない。デザインの一部なのかもしれない。
だからこそ、価値がある、と感じる。
自由意志とは、空っぽの意思から生まれるものでは、決してない。
この世に、もはや自然発生説的な意思の起源をもつものなどいやしない。みな何時からか、何事かに囲まれ、何者かに囲われる。そして、その何れかの「なに」に接近した瞬間に、すでに意思は空っぽではない。それは「なぜ?」と営為の意味を問うた瞬間に、すでに回答が内包されているようなものだ。回答が真でなくとも、質問者の裡に合致するものならば、回答と看做されるようなものなのだ。

そして、自由意志とは、「なに」かに接触しようとすることであり、その意思には多様が認められている。
なぜならば、意思の周囲には常に「なに」かがあり、その「なに」かを見たことが、究極的には触れることを後押す。
つまり、見たということが、内面に反映され、蓄積してやがて、新たな行為に転じるときを自由意志の表れ、というのであり、見る対象や時間、場所や情況、機会などがそのもの固有の経験と呼ばれる。

押井守は、この作品をもって、若い人たちに伝えるべきことがあるといったが、その自由意志にどう応えるのか、しばらく考えに耽ってみたいと思った。そして、その耽りがいつか何かしらの活動に転化されるなら、「スカイ・クロラ」は成功した、といえるのではないだろうか。