スカイ・クロラ メモ

ダークナイト2回見てきた。
ヒーロー・ノワール*1という新しい傑作だと思った。



それはさておき、スカイ・クロラである。ダークナイトのように手放しで傑作だ、ともいえないんだけど、なんかとりつかれてる。


ちょっとバラバラと思いついたことをこれから更新していきたい。
まとめるわけでもないので、あくまでもメモとして。

1、視点の映画だと思うこと。

これが前提。見方を変えろ、というテーマがあり、見方を変えて、いろいろ考えて見ると確かに面白い。優れた作品と同じく、いろんな読みを許す作品だと思う。
これからしばらく、この前提を利用して、「スカイ・クロラ」で遊んでみよう。


技法的には、カメラがいろんなかたちででてくる。
監視しているような、観察しているような。印象的な配置。空中戦を写すとき、カメラ機が存在しているのもおもしろい。


また、草薙から見たカンナミ、カンナミからみた草薙とか。大人から見たキルドレや、キルドレから見る大人、キルドレから見るキルドレなど。それぞれにズレがある。
視点の映画だな、と特に思うのは、彼らがそれぞれ瑣末に、しかし重大にスレ違っていること。分かりやすいのが、草薙にまつわる噂話。
みな、誰かが見た草薙を知っているが、草薙その人を見ていない。興味もない。そこで違うのが、主人公。カンナミは草薙を見ようとする。関心をもつ。
だから、草薙も気を許すのだけど、実際の視点はどこか遠くを見ている。焦点が常にあってない。
どこを見ているのかというと、きっと彼岸をみているのだと感じた。パトレイバー2の柘植みたいなもんなんだろなと。彼女の目にする現実は全部、幻。キルドレの行き着いた末。
だけど、ラストで、ようやく視点があう。
ラストは確かに原作と映画でずいぶん変わったな、と思った。


もちろん、原作は撃たれた。そして、映画も撃たれた。
原作は、死をもって草薙水素というすりつぶされた人格を救う。死をもってしか救えなかった。シリーズ全体を見ると、草薙に「さらに生きろ」というのは酷すぎる。
映画は、そのへんの事情をオミットしているので、生きろ、なにかを変えろ、見方を変えて見ろと言える。だから、撃たれたけど、撃たれてない。不思議な結果になる。


ラストのくだりからすると、これって終わらない日常ではなく、変えることのできる日常の物語なんだろうなー。
あれ? なんだか宇野常寛ビビットなテーマになってる。
*2


そういえば、ちょっと印象的だったのが、ティーチャと草薙の絡みのシーン。
ベッドで横たわるティーチャ、鏡の前で脱ぐ草薙。このくだりってポルノチックだよなーとか。
ハメ撮りにおける被写体としての少女というか。鏡/カメラ越しに自分を見る少女。
被写体としての人形と撮影者との人間の中間点に立っていて、、この後妊娠して、一時期キルドレじゃなくなるんだから、かなり示唆的。

笹倉の草薙評もちょっとおもしろい。「他人に干渉することを覚えた」つまり、魔女みたいな扱いで、おそらくオトナからすると、いつまでたってもオリジナルを保つキルドレは不気味なんだろうな。
多分、ティーチャの子供を生む→社会性を取り込む→政治的生物になる、と人間になっていったのが、
或る時またキルドレに戻る→再び社会性の喪失、夢見がちになる→娘を妹とする(対外的になのか内面的にも思い込むようになったかは分からない)→しかし、政治的手管は残り、サバイバルを生き延びることができるようになる。
うーん、三つ子の魂、百まで。



ティーチャといえば、永遠の子供の対になるんだけど、単純に見ると、永遠の大人なんだよね。死なないオトナ、負けないオトナ。
要するに、神様で、神様とケンカしようとするから、身も蓋もないオチに至るわけなんだけど、カンナミと草薙の結論に断絶があるように思う。
確かに、主題としては達成されてる。
カンナミ=同じ日々を、すこし見方を変えれば変化する→その証明として絶対者に挑む。神殺しを達成しようとする。
んで、ハードボイルド物にあるみたいに、この挑む時点でカンナミのキャラは狂言回しとして充足して、終わってる。
だけど、草薙の日常は続く。
草薙=日々が嘘のように過ぎていく→なにか見方が変われば、なにかが変わるよといわれる→ちょっとやってみよう→実際にちょっと変わったかもね。

この辺の、ティーチャの無敵神様っぷりが「オトナには結局勝てないのさ」という絶望をひろげてしまっているところがなあ。

オトナ=完成されているなんてのは傲慢でしかないのに。なにか痕に残るダメージを残してやればよかったのになーとか。


神話的に眺めると、ティーチャー草薙ーカンナミの三角関係って、そのまんま親子関係ともいえる。
原作も参照すると、エディプスコンプレックスをかなりのところ地で行ってしまってる。
そして、カンナミは母親をものにするが、父を殺すには至らない。
人間にまつわるスフィンクスの謎の回答を解いたが、得られる王権はなく、また父も不明。
だから、父親を殺さなければならなかったのだとすると、遠くに行って、そして、また母親の胎のなかに戻ってくる息子の姿はあまりにも哀れだなーとか。

*1:今考えた。意味としては、フィルムノワールが、実現不可能な犯罪と己の崩壊を実現可能な映像に置き換えたものだとすると、実現不可能な英断と社会との断絶を実現可能な映像として描いたもの、ぐらいにしておこう。共通項は閉塞感、闇、鑑賞者における社会情勢の不穏さ、とか。・・・あ、ファム・ファタルもいたな

*2:余談だけど、ゼロ年代の想像力読みました、あいかわらず言説はいまいちだな、と思った。でも、彼の用意したステージは確かに面白い。フラットな俎上にノンジャルでいろんなものを盛ってくるってのはいいことだ