ブラック・ラグーン 9巻

 はっきり言って、びっくりした。この巻で「ブラックラグーン」という作品がいわゆるゼロ年代=フィクションという「歪さ」をもって青年期の心象を捉える考え方=いわば後付的にその時の「現在の空気」=風俗とはまた違った同時代性、あるいは違和感に接近する/しようと試みるために便宜的に設けられたこの2000年代という括り、において、ものすごく意義深い作品となったから。
 今は時間がないので、ざっと並べよう。

1 ロックの歪んだビルドゥングスの達成について
マージナルな生き物だったロックが、自身で知らぬうちにロアナプラという「今、現在、我々が生きざるを得ない共同体」に自発的に組み込まれたこと。共同体のルールを敷衍して、ある種のギャンブルに到達したのも興味深い。彼の「一方のなれの果て」として、ロアナプラ=共同体を精一杯守護しながら、心底どうでもいいとも思っているスタンスである張が対置されている。

2、ラブレス、ロベルタ、シェーン、バラライカ 共同体と国家。
共同体をあえて社会と言い換えて、仕掛けとしてもややファジーなユルい空間とする。それより機構的でかつ上位的な「仕組み」が国家。アメリカというシステムは、特に個人に色々無理難題を押しつける象徴。米軍のキャラの記号的なやりとり。
また、対義としてソ連があり、これもほぼ同じ扱い。ただし、国家への忠誠、無茶ぶりへの変わらぬ誠意は彼らにおいて、貫かれている。
個人の道議で行動した結果、かつて国を追われたバラライカたち。
個人の道議で行動した結果、今作戦に失敗したシェーンたち。
彼らを亡霊と死者と見なす考え方。
ロベルタもまた、共同体=ラブレス家をあえて離れて誰も得をしない行動をとる。
ラブレスによる救済は、一旦崩れた共同体の再定義を意味する。死者シェーン、ロベルタをもよみがえらせる。
ただし、個人の道議に粛々と従ってみせる反面、シェーンがそれまで従っていた「仕組み」がその後、どうなったかは分からない。恐らく今回救われたロアナプラという街の全景と同じようにオブジェとして変わらないとすれば、つまり、この事態を先回りしたシステムが呆然と残されている。=機構や仕組みへの信任。「全体」への不信と同時に、前提としての巨大なシステムがあくまでも存在する。=個人や共同体だけが変わっていく。自然、個人の心象と、なにより関係性が重視される要因。
「僕たちは悪くないと誰しもが思うから、皆いつまでも争う」とすれば、その解決策として責任を引き受ける=共同体の再構築は、ルルーシュの自害。夜神月への断罪と信仰という仮託とも通ずる。ラブレスの隠遁然とした姿。
 ゼロ年代の終焉=青年期/モラトリアムの終わりともいえる。
 では、以降は?