「フロム・ヘル」(著:アラン・ムーア、エディ・キャンベル)

 こんな話だったのか!?
 というのも、この作品の原著を持っているからでして、乏しい英語力と辞書片手にページを手繰ってたんですが、「あ・・・ありのままに起こったことを話すぜ。オレは切り裂きジャックの物語を読んでいると思ったら、途中からオベリスクだなんだという単語がずーっと出ずっぱりだ。これはまるで、かつて読んだ黒死館殺人事件の「衒学めいたディテールが何を言っているのか分からない。それが正しいのかも分からない。ていうか、話の筋が骨折しすぎて今、何が起こってるのか分からない」にも等しい恐怖だ。アラン・ムーア恐ろしい子っ・・・」と心をバッキバキに折られて幾年ぶりに触れたからなのです。

  • 感想

アラン・ムーアにとって世界とは何なのだろう?
魔術師である彼にとって、目に見える世界とはびっくりするぐらい薄っぺらい紙のように見えているのではないだろうか。均一的で、不完全で、卑属な。
彼の作品で邦訳されたもののうち、既読のものを挙げてすこし考える。
バットマン:キリングジョーク」に所蔵されるエピソード群や「スポーン:ブラッドフュード」「バイオレーター」はその出来は勿論、素晴らしいものの、あくまでキャラクタを生かした内容で、テクニックが先行することが目立つため、作家性はあまり伺い知れない。
そこで、「リーグオブエクストラオーディナリジェントルメン」や「トップ10」などのオリジナルになってくるとひどく面白い。キャラクタや舞台にすべて来歴が用意されていて、どこからやってきて、どこに向かうからこそ何者で何を為すのかがはっきりしている。
ここでは、登場人物の歴史への指向性というのは感じ取れる。ジキル博士とハイド氏と透明人間だから、こうなるだろう、という深い洞察に基づいた予兆に満ちている故、納得させられる。
もっとも、それを作家性というのかテクニックの集積であるというかは微妙なところだろうけど。
では、エポックなものではどうだろう。
ドン詰まりの冷戦時代、段々と明度を落としていくコミックシーンの中、「ウォッチメン」で彼は、スーパーヒーローを他の数多多くの人と等価な卑小なものとした。正確に9分割されたコマにおいて、ヒーローというキャラクタはそれ自体が主題となるのではなく、主題のために捧げられた供物だった。その捧げられた供物をもって切り出した瞬間に世界の何事かが宿った。コマの一つ一つにある背景に語るべき物語がある。由来がある。
その結果として、暴力を行使し、死と破壊を振りまきながら、無邪気でいたヒーローの凹凸を見せつけてた。だが、それは作者の意に反して、陰惨な暴力という薄っぺらい紙の上で表現された過激な側面だけを際だたせるものともなった。
「Vフォーベンデッタ」では、一人のアナキストが「汝の為すべきことを為せ」として遺した混沌があった。そこでは同じように陰惨な暴力があり、死が当たり前のように転がっている。だが、それはまた生命であり自由であり、誰しもが持つ可能性についても描かれている。
彼の目に見える世界は恐らく薄っぺらなものにすぎない。重要なのはそこに内蔵されているのか、だろう。眠った時、夢に浮かび上がる数多のイメージと断片が時間も空間もなく、複合的にからみあって、いずれインスピレーションに化けるように。
アラン・ムーアにとって世界とは薄っぺらな紙なのだろう。だから、彼は一見して分かる全景をそのまま見るのではなく、その紙でもって、さらに奥を透かして見ようとする。
そして、目を細めたときに窺い知れる陰影であり、細部であり、そこからさらに浮かび上がる複雑怪奇なパターンの集積をもって、自らの表現系としているのではないか。
フロム・ヘル」もまたそんな作品だ。<<歴史にも建造構造があるのかね? 極めて輝かしく、極めて恐ろしい知見だな>><<象徴には力があるのだ、ネトリー>><<シンボルは我らの思考と行為に指令を与えている>>

作中に登場する切り裂きジャックは狂気を飼っている。その狂気は哲学でもある。神学であり、宗教である。実にロマンチックだ。
ジャックは世界の巨大なパズルにぴったり嵌るピースを求めるピルグリムであり、また自ら「ロンドンという土地に縛られている生きながらにしてある意味、すでに霊的な存在だ。
彼をもって、この物語は進行するし、彼によって、この物語は俯瞰されている。
当時の風俗、人物などの事実が本来、我々に過去としてすでに知らされているのと同じように。だが、我々がそれを知らないだけなのだ。そして、ジャックは知っているだけなのかもしれない。
面白いのは、ジャック自身は、「切り裂きジャック騒動」に無関心に見えることだ。周囲の喧噪をよそに粛々と事を為していき、終わればその時が来るのを静かに待つジャック。
精緻なパズルではめ込まれたピースであるという自覚故にピース自身が何も考えないと諦めているようで、それでも全体へと昇華しようと邁進する姿は興味深い。
作中、圧倒的な象徴として告げられる「第四の次元とはなにか?」
そこでは時間も空間もなく、ただただ連続的同時的に一つの線へと収束していく。そして、この一箇の出来事が時間と空間を超えて、波及し、結論づける。
切り裂きジャックにとっての紛れもない天上とは、あるものにとって地獄ですらあるのだと。
彼の彼自らにとって気高い精神の産物が、あるものにとっては唾棄すべき忌まわしいものでしかなかったように。また面白おかしい非日常の出来事でしかなかったように。
こうして彼の肉体と精神は切り取られてプロセスは喪われて、やがて行為と結果だけが遺される。ロンドンに集積され続ける一箇の傷跡として。
この物語は重合的だ。傷跡一個にも無数の意味を持たせられるという意味で。
アラン・ムーアの混沌が、次は何を見せてくれるのかが今から楽しみで仕方がない。