「capeta(8)」 作・曽田正人 〓〓躍動という殻の中〓〓

  • 簡易バージョンなので、解説のみ

 多分、この巻が今の曽田正人のピークだと思います。曽田正人の真骨頂は躍動する肉体を書いてなんぼです。「昴」はまさにバレエという肉体をあますところなく使った挙句、さらにその先を目指した話ですし、「め組の大悟」は炎という人間の恐怖の対象に体で向き合っていく話、シャカリキも自転車を必死こいて漕ぎまくる汗臭い話です。
 天才が天才ゆえの肉体の限界を用いて、困難に挑んでいく様を描くのが曽田正人の最大の特徴なのに、カペタはそれをわざわざ封じてしまっています。カートという中で肉体は躍動しません。まったく。少なくてもこれまではずっと。狭いシートに座って、ハンドル切って、アクセル、ブレーキを踏んでいるだけです。まったく盛り上がりません。だから、カペタでは他の漫画よりも積極的に体の外側の話を描き続けてきました。例えば、解説を入れたり、主人公以外の周囲のキャラクタの掛け合いを入れたり。それは。主人公のメンタリティよりはむしろテクニカルな部分を重視しているからなのでしょう。これらは確かに一般的な漫画の面白さではあるのですが、曽田正人にとっては明らかにわざと狭いシートに座りにいっているようなものです。多分、そうなった直接の原因は「昴」という怪作のためでしょう。あれは化物のような漫画でした。これまで様々な漫画を読んできましたが、読むだけでどっと消耗する漫画はあれぐらいしか知りません。「昴」は全身に全霊を込めて踊る少女の物語です。彼女はしかし、少女ではなく、少女の殻をかぶった「なにか」のような存在でした。人間性がとことん削ぎ落とされて、ただ「踊るため」だけに純化された存在でした。そのため、我々読者も彼女の「踊り」を見るためだけに読み、昴という殻の内部から放たれるあまりに歪で強烈な閃光にめまいを引き起こすのです。そして、それは作者にこそもっとも強く影響したのでしょう。だから、「昴」は突如として失速し、休載してしまいました。そして、始まったのが、この漫画です。
 この漫画、「capeta」は「昴」と明らかに異なります。主人公ははっきりとした自我を持ち、とても人間的です。中学生らしい未来への展望を持ち、生きています。友達もいます。この点においても「踊るために、見てもらうためだけに生きている」昴とは明らかに違います。カペタ達は友人というゆったりとした時間を共有しているのでしょう。しかし、昴は一人で一人の急速な時間の流れに生きてきました。さて、カペタはそうして諸々の情を背負いながら、「走るために純化された」カートに乗り込みます。それはつまり、わざわざ自分のエネルギーを殻の中に押し留めているのです。そうしてこれまではカートという枠組みを超えない走りを見せて、それでも異才を持つ彼はどうにかこうにかやってこれました。テクニカルだからです。しかし、それは曽田正人自身にも当てはまります。持ち前の技量で騙し騙し描いてきたのです。
 しかし、そんな彼についに転機が訪れるのです。志波リョウというライバルとの壮絶なチェイスの果てに引き起こった肉体の限界を超えた酷使とその結果、殻であるカートの破壊。殻の中のエネルギーが爆発したのです。そして、これが意味するのは、次なるステップです。
 しかし、それが単に新しい殻に引きこもってしまうだけなのか、殻をはぎとってしまえるかは今後の展開次第です。ただ、自らの肉体の限界だけを追求できるバレエと異なって、マシンやスタッフ、スポンサーといった他物とも上手くやっていかなければいけないクルマの世界では、殻を壊してしまうことは限りなく困難なのかもしれません。その意味で、この巻は「capetaを描いている曽田正人の限界点ではないか」と僕には思われます。
 できれば、曽田正人という漫画家には昨今流行のテクニカルな確たる証左による実力ではなく、圧倒的なエネルギーによる全てをねじふせる実力を描いてほしいと思います。