というほどのものではないのですが、CROSS†CHANNELに関する所感。

 このゲームが昔やったエロゲの中ではダントツで好きです。
 理由としてはテーマと作劇手段が完全に合致しているからです。YU-NO腐り姫に似た構造を持ち、さらにループする世界がどうして必要であったかという疑問に正確に答えている時点で、ループモノの極地といえるでしょう。
 基本的にループモノってのは、本来ならば同一線上の物語の派生を補完していくスタイルであり、「ああすれば、よかった」「こうしておけばどうなっただろう?」という本来ならば一義的なストーリィに実は潜む多様性を楽しむものであるわけだと思います。
 そうなってくると、キャラが作中でも言われているように「現象」となるわけなんですね。同じ存在が繰り返し繰り返し消費され続けるわけですから。
 ストーリィのレベルに応じて、キャラの属性を変異させては使い潰し、一度カタストロフへ導くと再度、キャラを構築しなおす。
 この作品を僕が最も評価している理由は、つまり90年代で雨後のたけのこのように現れて、今は徐々に脱却しつつある「キャラの記号化」ということを突き詰めているからです。
 主人公はメタコミュニケーション野郎であり、人間を人間として捉えておらず、自らの裡にある基準に従って、恐ろしく合理的にカテゴライズしており、そのカテゴリに準じた活動を自らに課しています。
 そうることで浮き彫りになるのは、異常であるキャラクタがその異常をもって、精緻なキャラ造形を模っていることです。ああすれば、こうなる。こうすれば、そうなる。というA to Bの関係式が明確に見えてくる。すると、キャラは完全に記号と化します。
 そうして、際限なく続くループ(試行)の中で記号式は果てしなく積み重なり、やがて最適の解答を導き出します。それこそがこの作品にあってはゼロの世界。AもBもいない。空集合Φ、つまり自分だけが存在する領域への道です。
 ループものや可能世界論を取り扱う物語のほぼ全てがその帰結として「絶対」だとか「根源」だとかに至る理由はここにあります。果てしない試行の果てに、最適な解答を見出すために、必ず「(作中において)完全」にならなければならないからです。最後の最後で形而上の存在が登場するケースが往々にしてあるのも結局、「完全」を求めるがゆえに、結果として大団円を迎えるための機械仕掛けの神が必要であるからですね。
 ただ、この作品は形而上の存在に物語を預けなかったところに評価するところがあります。物語を作り出すのもキャラクタを生み出すのも「人間」だからというテーマがそこに絡んできて、それまでカリカチュアされていたキャラクタを人間として見すえ、関係式を構成する要素ではないとすることで、場から排除していき、最後に自分(Φは公理であり最大の数的要素)を人間として見すえることで自分すら排除してしまい、その結果、物語はあのような終焉を迎えるという見事なテーマと物語構造の合致が見られるからです。
 この作品は、人間とはなにか? を極めて王道なテーマをストーリィの構造から問いただしており、その解答は得られることは結果としてできずとも、解答に至るプロセスをまざまざと見せ付けることで、プレイヤーの胸にキャラの人間性を見せ付けることに成功しているため、僕は非常に評価しているのです。