アフタヌーン ニ月号を読む。

 今月から「ヴィンランド・サガ」が連載再開。相変わらずトルフィン少年の目がガシガシ削れていってます。超ステキ。
 僕が、この作品を読んでいてしばしば感じるのは、歴史的意義に立ち合えるかもしれないという予感だったりします。
 前置きとして言っておくと、作者である幸村誠の前作「プラネテス」は最終的に愛の解釈を肉体的な接触ではなく、他者との観念的接触に向かわせてしまい、それほど目新しくはないSF世界に留まってしまって、僕個人としてはそれほど楽しめませんでした。
 無論、それまで文字媒体にしかなかった「普遍的なテーマをガジェットの中に置き換えて語る」類のSFマインドを漫画という舞台に引き上げた功績はそれだけで評価されて然るべきだと思いますし、また「ロックスミスーハチマキのおとーちゃんーハチマキ」の「宇宙人ー宇宙的地球人ー地球人」という配列も見逃せないものがあるのですが、それでもやはり不器用だなあという感想のが先立ってしまい、どうにも面白くなかった。や、好きなんですよ。ロックスミス絡みのエピソードは特に。オチついてないんですけど。
 

 んで、この作品なんですが、「肉体」というものが非常に大きなテーマになっているように思われます。というのも、バイキングってのは、後に欧州型国家の原型になった母体集団=戦争の鬼=裸一貫でのしあがるというもので、んな非情な世界に幼い頃から放り込まれたおかげで、ロックスミス的な合理主義者に落ちちゃった少年トルフィンの物語であり、宇宙に向かうロックスミスが頭脳とごっそりと何かが抜け落ちた人間性を獲得したように、この世界においては主人公トルフィンが肉体とごっそりと人間としての何かが抜け落ちちゃってるためでしょう。
 なお、こうした歴史伝奇もので知っておくべきことは、劇中当時(それが未来も過去もなく)の風俗において「命の価値観」がどのようなものであったのか、ということであり、今月の「クリスチャン親子=当時においてもっとも凡庸な人間の例」が世俗的かつ人間的な倫理コード「慈悲」を履行するのですが、人間として大いに欠落しているトルフィンはそれをまったく理解できないでいます。基本的な社会規範は現在とさほど変わらない世界においてトルフィンは人間のスタンダードから逸脱しているということです。
 つまり、超時代的な変人といいましょうか。ただ、その超時代性というものは異なる作品における隔たりにすぎず、同一の作者がこれを描く以上、キャラの根っこってのは似通ってくるものです。
 これが意味することは、トルフィン=前作で描かれなかったロックスミスじゃないかなーとか思います。
 まあ、どの時代にしたって、道を切り開いていくのはそれこそ「悪魔みたいな人間」なわけでして、この作品は当面の間、ヴィンランドにやがて向かうであろうトルフィンに「いかにして我はロックスミスを生んだか?」という話を仮託していくんじゃないかなーとか。そう考えると、ものすんごく極個人的なテーマを取り扱うことになるわけで、作者コメントでも言及されている「寄生獣」がちょうど環境問題を取り扱う時代にセンセーショナルに出現したように、この個人主義の時代に、肉体をもって、突出した個人を描き出すこの作品もまた非常にセンセーショナルじゃないでしょうか。などと


 すさまじくとっちからったので、そのうちまとめて改訂します。
 当然のことながら、予定は未定。