ウルトラジャンプを読む。後、シグルイも。
- SBR
- 大ゴマが美しい。先々月ぐらいから、つまりリンゴォ戦からジョジョがグングン面白くなっていると感じる人も多いと思うのですが、その理由は多分、キャラが入っているコマが大きくなって迫力が増したからじゃないかと思ってます。
- これまでのジャンプ連載時のジョジョは「19ページにどれだけ内容を詰めるのか?」という命題と戦ってきたわけで、その結果、変則的なコマ割とキャラがしゃべりまくって、シチュエーションが展開する技法を獲得しており、驚くほど見開きが少ない漫画だったんですが、ウルトラジャンプ移籍後、ページの制約がほとんどなくなって、締め切りも延びた結果、一コマに対するこだわりのようなものを感じるようになりました。
- 僕は個人的にジョジョの奇妙な冒険のベストバウトは第二部のワムゥ戦、第四部のハイウェイスター戦、第五部のマンインザミラー戦およびコロッセオ戦など要するに「追われつつのハイスピードな攻防戦」が好きで、それというのも場の勢いというか迫力が凄まじくて、「状況に追い詰められている主人公達は本当にどうなるんだろう?」とワクワクさせられたものですが、今回のSBRは最初のレースバトルは「まったく誰が勝つのか分からない。どうなるのだろう?」というのが非常に目新しくて楽しかったんですけど、その後、2ndレース以降、スタンドバトルに入って物語の速度というか勢いが落ちちゃって「なんだよ。せっかく楽しかったのに」と残念に思ってたんですが、リンゴォ戦以降、ギリギリ感が戻ってきたました。命のギリギリのやりとり、主人公パーティが本気で一杯一杯にさせられる雰囲気というか。これはジョジョ第五部以降に顕著なパターンで、敵対するキャラにものすごい厚みがあるため(敵役リンゴォには第五部で用いられた『かくして〓〓は誕生した!』メソッドを導入してまで)、どう転ぶのか分からないエネルギーがほとばしっていました。
- 加えて、今のSBRには「物語がどうなるのかまったく想像もつかない」楽しさが出てきた気がします。例えば、今回から全く非力なスティール夫人がスタンドに立ち向かうわけですが、彼女がどうスタンド使いを出し抜くのか? ということだけでなく、彼女が出てきたことで、ジャイロやジョニィだけではなく、スティール夫妻も交えて、多面的に敵対勢力に向かっていくというストーリィの形が現れたわけで、緩急をつけやすくなった。つまり、超人同士がガチで殺しあうスタンドバトルともう一つサスペンス調の「一般人VSスタンド使い」という構図も楽しめるようになったわけです。
- これが個人的には楽しみでは仕方がないのです。スティール氏や夫人がスティール・ボール・ランの外=社会で戦うわけですから。
- レース内では「男の世界」ギリギリのサバイバルが展開されることの対比になるわけです。そのため、非力な老人や少女が前号で対比された「社会と男の世界」のうち、社会で強大な相手と戦っていくのを想像するだけでワクワクします。
- ところで全然関係ないんですけど、今のジョジョではスタンドの定義が大きく変わっているんですね。旧来の「精神が肉体を優越する」価値観から「肉体の復権」が強く打ち出されている気がします。「肉体とは別の肉体」がヴィジョンとなるわけではなくて、「肉体の一部」が変化するというのは、これは面白い現象だなーと感じました。
- これは多分、作者が「球体」を意識したときに確実に遭遇したであろうハンス・ベルメールの人形を見れば分かるんですけど、別段、精神に自由の主体と客体を求めなくても、肉体それ自体に摩訶不思議があるわけです。
- かつては肉体美こそが社会の大きな価値観になっていたわけで、だからこそベルメールと同じ人形作家である四谷シモン、彼が影響された澁澤龍彦という反逆児が、精神に自由を求めてきた。他物であるはずの精神の形容が、実は主体そのものであると発見し、それは肉体的欠損を補いさえする。それが従来の価値観を反転させるエネルギーを持つ。そうした背景の中で、精神にも肉体があって、それは超常的な力を獲得するというスタンドが漫画というメディアに颯爽と現れて、以降のシーンに凄まじいほどのインパクトを与えたわけです。精神こそが肉体を優越するという反逆行為が喜ばれた。
- しかしながら、肉体を誇ることよりも頭脳を誇ることが尊ばれるようになった現代においては、一つの揺り戻しとして肉体の復権が求められるようになったのかなあと考えています。精神は肉体と同価ないし精神の方が価値があると社会に認知されてしまった。ありきたりになってしまった。
- で、ベルメールです。ベルメールの作風はシュルレアリストらしく斜視に構えた現実感が人形という擬似の肉体を介して生じているわけで、肉体が奇怪なスタイルで表現されていたりします。人形と言う媒体を介することで肉体が冷たい他物であるということを喚起させると同時に、また生命力のない人形と温かみのある人間との間に存在する隔絶した差を知らしめるわけです(これを澁澤は確か、ナルシズムやオナニズムといった自己愛と述べていたような気がしますが)。肉体が本質的に同価であるならば、精神こそが各々の差異を企てる。しかし、精神は肉体があってはじめて生じるものである。というわけです。
- まあ、長々ととっちらかった話をしてきたんですが、荒木飛呂彦が肉体それ自体に他物の感触を感じて、神秘があると考えるようになったのかなーと思ったりしているっていうだけです。
- 銃夢LO
- ああっ……ついにやってしまわれた。作者がカエルラを愛しすぎた結果、ついに彼女が全ての物語に絡むことに。
- これは危険です。カエルラ編が終わったあと、満ち足りた表情で燃え尽きた作者が目に浮かび、不安で仕方がありません。
- 皇国の守護者
- フェリラがありきたりの美少女じゃなかったことに複雑な思いを抱える原作ファンは絶対に僕だけじゃないはずです。
- それはそうと、本当に今回は作者が上手すぎると思いました。話の運び方もメインは文章で挿絵的に展開させながら、退屈にならないようにと金森の話を後ろに据えて。「許しは乞わない」のカットが懺悔するように手を組んでわざわざ大ゴマを使っているところなんか特に素晴らしかったです。
- 読みきり
- 根本的に「説明しない漫画」だと思いました。
- 少年になぜ分相応な能力があることを説明しない、死神が実は美少女(しかもエロイ感じの)であることを説明しない、最後のコマで特に意味もなく妹キャラが出てくることを劇中で説明しない、俗に言う「雰囲気漫画」というやつ。
- 経験則としてこの手の漫画は作品ごとの好き嫌いが激しく(理由としては、キャラが記号的な配置に頼る傾向が強いためだとか作者の思考をトレースできるかどうか、など)、受け入れられない人はまったくダメで、すんなり入る人は好きなんだと思います。僕は死神がエロイ感じの美少女だったことはオッケーです。その他はダウトでした。つまり、これは趣味の問題です。