交響詩篇エウレカセブン・総括

  

エウレカセブンは何故、観るものを悩ませるのか?」

  • 序文

 エウレカセブンを一年間目に通した人たちは最終回が終わって、たいてい思うわけです。

「え? これで終わりなの?」
 ゲッコーステーツのメンツはどーなったのよ? セカンド・サマー・オブ・ラブって結局、何のことだったんだ? 結局、デューイは何やりたかったの? とか。
 考えれば考えるほど悩むことになります。
 だから、「まあ、一年間かかって終わったわけでなんだか一段落してほっとしたけど、色々と首を傾げるよなあ」というのがだいたいの感想だと思います。

  • ロボットアニメとしての、文法

 ロボットアニメ(つーか、一般的なアニメーション作品)の舞台は、当然ですが、我々のいる世界とはまったく違う世界なわけです。どれだけ我々のいる世界と地続きだろうが、まったくの別世界です。
 その「別世界」がファンタジーだろーがSFだろーがんなこたどーでもいいですが、「別の世界」である以上は、視聴者に対して、なんらかの説明を設けなくてはならないわけです。
 この命題をどう克服するのか、すなわちロボットアニメにおいては「どうやって主人公をロボットに乗せるのか?=どうやって視聴者を舞台に引き込むのか?」というのが重要な要件であり、説明義務というのはロボットアニメの絶対条件となってます。


 ところが、このアニメはそもそもレントンという少年におけるビルドュングス・ロマンとしての構成をとってるので「少年は色々あって成長しました」というあくまで主人公視点の、非常に情報量を限定された物語構造をしており、本来は舞台設定の説明がさほど問題にならないはずなんですが、この作品は違います。
 教養小説は、主人公を成長させるために「教養=知識(自意識)が身につく」ので、順次、世界背景(社会の在り様だとか、まあ、いわゆるオトナの世界。この作品の場合は、主人公視点と併せた視聴者に対するエクスキューズ)が解放されていかなければなりません。
 ところが、エウレカセブンはほとんどやりませんでした。必要だったら他メディアを頼れ、と作中説明をかなり投げてたりします。
 その是非はともかく、説明することありきで作られる「ロボットアニメ」で通るかというと、そうは問屋が卸さんのが実情ではないでしょうか。造語のくせに他メディアに頼らないと意味を理解できないというのはマトモに考えて、尋常ではないと思うのが人情です。
 この辺りは本筋に絡まない引用が困惑の原因の一つだと思います。「本筋における意味」が語られないために、「全然関係のない引用元としての意味」を追いかける破目になるんですが、結局、劇中の単語とは全然関係ないわけで、何のための引用だったんだと困惑に困惑を重ねることになるわけです。
 まあ、これは「動物化するポスト・モダン」のデータベース化云々に対する一つの解釈というか、試みだと思うので、そう考えれば腹も立ちませんが、これがもしかして、ポスト・セカイ系かしら。 


 ポスト・セカイ系というのは、まあ、テケトーに思いついた言葉ですが、なんとなしにその意味を考えてみることにします。
 従来のセカイ系は「無力なんだけどスゴイ僕が」「無敵なんだけど不安定な彼女と一緒に」「セカイを手中に収める」物語としておきますが、まあ、最終兵器彼女にしてもエヴァにしてもイリヤ(ぶっちゃけイリヤセカイ系にゃー入らんだろうと思うけど、主人公頑張ってるし)にしても、できるだけ主人公は傷つかないところにいて、誰かにセカイの全部を仮託して「僕達は生きていく」なんてすっとぼけた自己陶酔に耽る物語で、これは90年代の心理学が一般化したしたおかげで流行った「センシティブで病んだボク」というナルシズムに対する反省として、ポスト・セカイ系では、とにかく主人公がひどいメに逢わされるわけです。


 ポスト・セカイ系においては主人公が「僕に優しくしてよ」と誰かに言おうものなら、「ていうか、私に/オレに優しくしろよ」と言われ返すわ、で、そういうギスギスしたセカイがイヤになって逃げ出して見つけた安住の地に行こうものなら、強制的に連れ戻されるわけではなく、楽園を破壊されて、否が応もなく戻らざるをえなくなるわ。主人公はとにかく追い詰められていくことになります。
 ここのプロセスは本当に悪趣味とならざるをえず、(決して伝統的な文法のようにしっぺ返しの形をとらない、ただ一方的に主人公がなじられるだけ。これはイリヤにも見られた流れ)、実際、エウレカセブン中期はあまりにも見るにも耐えない展開になり(エヴァの後半みたいな「破綻」を自覚的にやってる分、始末に負えない)、そのうちこれが回復されることになります。
 まあ、その意味でセカイ系よりは救われるかなーとも思います。


 で、セカイ系を回復した後はどうするかというと、まあ、今のところはセカイ系への反省文です。
 よーするに、そこに説教(というとアレですが)を加味していくわけです。「色々あったので、ちょっとは成長したボクが言わせてもらいます」ってなもんで、説教+エンターテイメントという流れになります。今後、この反省がどういう方向に向かうのかは楽しみですが、今のところはこういう感じ。

 長々と話しましたが、簡単に要約すれば、以下の二つになるかと思います。
「劇中の単語の意味を説明しないこと
 単語の引用や展開ないしプロップのパロディに対する必然が存在しないこと」

 この際、いくつかの展開上の不自然云々というのはさておき、全ての展開がちゃんとしたプロットの中に収まっていると仮定しても、上記二つがエウレカセブンの異常性を明らかにしています。
 結局、主人公を起点とした限られた視点のほぼ日常的な物語であるのにも関わらず、情報量が多い物語然とした物語を舞台としてしまったため、ものすごくチグハグとなったんだと思えます。
 視聴者が想定する「ここで説明が入るだろう」いったそれまでの文法上にあった暗黙の前提を飛び越えて、製作者がそれ以外の要素を並べたことに起因するんじゃないだろーか、などと。
 
 まあ、エウレカセブンは良くも悪くも新しい物語を作ろうとした作品だったので、これを踏まえて作られる次のロボットアニメに期待したいなーと思いました。