卑怯な爆弾たち


 出張先で、「びんちょうタン」がやっていてちょっと興味をひかれたので資料をめくる手をとめて、見てみた。
 五分で死ぬかと思った。痛々しすぎて見ていられない。
 もう許して。思わずテレビの電源を落として、再度、資料に目を落とす。


 僕は勝気な女の子が傲慢に振舞うのも平気だ。無表情な女の子がひどいメにあうのも平気なのだが、けなげな女の子ががんばって生きていることを見るだけは耐えられない。


 手を伸ばしてやれないことに死にたくなる。吐き気がする。恐ろしい偽善を意識してしまう。フルーツバスケットの女主人公にも似た生理的嫌悪を感じるのだ。
 これはムリだ。本当にすいません。生きていてごめんなさいと謝りたくなる。


 昔、「家族計画」という名作ビジュアルノベルがあった。あのゲームに出てくる高屋敷茉莉というロリキャラ(まんまフルーツバスケットの主人公の、ただしドグマが逆転した人物)がいて、「私を愛してください」「愛されるにはどうすればいいですか?」と大きな瞳で尋ねてくる。
 それは捨てられた子犬が雨の小道にひょこひょこ自分についてくる気持ち悪さに似ている。(しかも、その子犬は片足を喪失しているのだ!)


 およそ資本主義社会的な、つまり現代において巻き込まれることやむなしの現実闘争から排斥されて、その戦場からかけ離れた場所にぽつんと立っている憐憫の対象。僕はそういうキャラが根本的にダメである。
 別に、「そんな存在なんてありえねえんだよ。ボケェ!」なんてオトナのリクツをぶつけたいわけじゃない。
 ただ「恐るべき欺瞞なのだ」と感じるのだ。なぜならば、「意図して作られた憐憫」とはそれゆえに「憐憫なる一つの感情」を人工的に喚起し易過ぎるからだ。


 憐憫や愛という概念は決して作られるものではないと僕は信じているので、それをベースにして売ることは例えば、「平和を愛せ」「戦争はいけないことだ」と声高らかに謳う連中にも似た胡散臭さや、「愛国心を育てろ」「日本に真の自立を!」と唱える連中にも似たうっとうしさを憶える。
 これらは政治的信条と文学的詩情を混同した最低の方法論だと僕は思う。*1


 そして、文学において最低の方法論とは、「ある直情のみにターゲットを絞って、強烈に掻きたてる」ことだと考える。なぜならば、文学とは社会と個人との接合点に存在する葛藤の発露でなくてはならないからだ。文学とは個人の心情をただ吐露するのでは「文学」とはなりえない。
 自らの内面に存在する「なにか」としか言いようが無い感情を冷静に見つめ返し、検討していく中で、文学は生まれる。
 正しいことを正しく言うだけでは意味が無いのだ。トートロジーがそれだけで意味を持たないのと同じくして、本来、「他物」として存在する「なにか」を同化するなり拒絶するなりして、何らかの反応を待たないと意味が無い。


 度重なる価値の崩壊を経験した現代においてはもはや自明の理だが、価値とは「価値〝観"」という個人的ないし社会的な基準によって生まれるからこそ相対化するものであり、ある一方において最大の価値をもつものはもう一方では無価値となるものである。
 文学はその価値への問いかけを含むからこそ、見つめるべき他物もまた必要とならざるをえない。*2
 この前提を弁えない単なる自己完結はそれがどれほど高尚であっても、単に自慰行為にすぎない。多くのブログや日記といったパーソナルスペースの中で語られる個人の愚痴や感想、説教が決して「文学」でないのと同様に。
 であるから、「社会」と呼ばれる外部は文学において必要となり、文学とは外面的「社会」との葛藤に他ならない。自己において正当な意見だけでは、いかなるケミストリーをも発生しないからだ。


 上述した事柄により、「特定の感情に強く呼びかけることを目指した作品」を卑怯だと僕は感じる。社会性を意図的に排斥して、ただただそれだけを目指すという単極性は個人の愚痴や感想と同等だと評価してしまうからだ。
 *3  *4
 人間の情緒というものは、自然として発生するものだ。そこには理由や論理を超越した意味が存在しており、それゆえに人間というものはかくも神秘的であるのかと気付かされる。であるからこそ、「ある感情の喚起を目指したもの」ほど不気味な存在はないと僕は思う。それはもっともデジタルなものだ。人間の心理を逆手にとったヴァーチャルにすぎない。しかも、目的と手段が逆転している類の。
 結果として感動するのはいい。だが、感動を理由にする作品は最悪だ。
 だから、「感動」を売りにした作品に真に感動することなぞ僕にはありえないし、露骨に「萌え」を意識した作品やメディアも大嫌いだ。*5




 などと言いつつ、「家族計画」の茉莉編のラストには爆泣きしてしまったことを思い出して、再びテレビをつけてびんちょうタンを見る。
 ……ずるい。こんなのずるいよ。
「がんばれ。びんちょうタンがんばれよ」と思わず言いたくなった。
 気付けば、資料の紙に涙の跡が落ちていた。

 


 以下、脚注による傍論。

*1:というのも、それらは当然の提示にすぎないから。果たして誰が、彼らの言う当たり前にすぎる言葉を否定できようか? ゆえに、政治において重要視されるべきは事の善悪だとか心情的是非ではない。『では、いかにすればよいのか?』という現実的かつ着実な論理の発想と判断なのだ。政治的対立とは、絶対に思想的対立を指すものではない。最大多数の最大の幸福を追求するための手段の差異によって生じなければならない。これを誤認したかたちで発生する政治的対立はもはや政治としての体を為さず、個人的信条のための個人的感情による個人の喧嘩と化す

*2:一時期、ポストモダンの蔓延により「価値」という概念それ自体への問いかけをするといった前衛的な技法が流行った時代があったが、現在では段々と少なくなってきており、個別具体的な価値の検討へと再びシフトしてきているように思われる

*3:この意味において、「びんちょうタン」作品そのものはスローライフを描いたものといえ、現代に対するアンチテーゼの提示ともいえるが、それは作品の目的であるからここでは問題としない。問題なのは一定の心象を誘導するように仕組まれたとしか見えないキャラクタ造詣である

*4:さらにつけくわえるならば、恐らく製作者はこうした批判が出ることを理解されていたに違いない。もし無自覚であるならばそれはそれで恐るべきことだが、わざわ擬人(ファンタジー)化したキャラクタを配置して、妙にリアリティ(=説得力)がある生活を描く必要などないから、すべては確信犯的なものだったと思われる

*5:一応、補足しておくと、フルーツバスケットが嫌いわけではないし、本田透みたいな女の子が目の前にいたら五秒ぐらい悩んでから、ソッコーで拉致ると思います。茉莉でも同じく。後、子犬の場合も拾ってしまうと思います。だって現実じゃないからネ☆