少女セクト(著者:玄鉄絢)をもらって、読む。


 なるほど。これは見事な百合だと思った。
 基本的に同性愛は、「(広義の)社会から見たら異端の自分ってのは、なんすかね?」っていう疑問から出発する物語だと僕は解釈していて、例えば、三島由紀夫の同性愛を取り扱った作品は社会的堕落に反して、精神の特権性に目覚めていく情緒が描かれている。
 これはホモフォビアが社会の大多数を占める現状に対するホモセクシャルからの反対行為である。彼らは自分達が自由であることの特権を得ていると陶酔する。
 ゆえに、登場人物は先天的な性同一性障害からくるものではなく、あくまでも後天的である。限りなくファッショナブルな青春の後付。自らの精神的特権性を求めるための「理由ある反抗」である。
 ところが、社会が変遷し、現代においては自由であることの権利がおおいに認められてしまった。
 相変わらず同性愛に関する嫌悪感を持つものは社会の大多数だが、権利として認められては仕方が無い。せめて許そうと社会構成員は異端者たちに寛容をしめす。ここに精神の特権性は崩れ去る。
 理由ある反抗である青春は瓦解し、その根底にある社会的問題は意識されなくなる。青春は終焉を迎えるが、しかし、青春はどの時代にも存在しており、その特権性は常に獲得されなくてならない。
 であるから、青春の根底をなした社会への階級意識もまたなお存続されなくてはならない。外部的社会に向けたものがダメなら今度はより小さな社会においてそれは行われる。
 著名な作品である「マリア様がみている(以下、マリみて)」は同性愛であることは特権性と結びついているように描かれている。
 選ばれたものに選ばれて、支配されることは大勢を支配することである、ということだ。学校という小さな社会に向けた社会意識は、そうして、「私は他の者とは違うのだ」と世界への反抗に成功する。 
 「少女セクト」も「マリみて」と同じ構造を持っていて、ただし支配者と被支配者の関係において社会意識は問題とされている。
 この作品においては「あなたと私」のみが社会の全域にすぎず、もっといえば反抗すべきは支配者という他者一人、限りなく小さな社会のみである。
 ゆえに、この作品は被支配者が支配者に反抗して、それに成功することでカタルシスを得ている。これはストーリーとしてはほとんどギリギリの体裁であり、あまりにも断片化された情報がシリーズとはなりえなくても、一つの漫画として成立していることが個人的にはおもしろいと思った。
「私は単なる従属者ではないのだ」と行動で示して社会がそれを寛容するのはどの時代でも変わらない青春の結論であると思われる。