90年代的「ゲームキャラクター」幻想論

 これは前回エントリーhttp://d.hatena.ne.jp/y2k000/20060603#p1の続きというか、補足になります。
 どうして80年代からいきなり現在に話が飛んだか、というか、間の90年代ってどういう時代だったのか? ということをある程度、書いておかないとやっぱりフェアじゃないよなあと思ったので、書きます。
 タイトルは前回の続きっぽいですが、内容は主人公像の話からはかなり離れると思います。


 199×年、日本は文化的経済的に、もはや危急の縁へと立たされていた。
 狂気の時代、豊穣の季節と謳われたバブル経済が見事にはじけとび、フィリピン女を囲っていたシャッチョさんは首をくくり、会社員はそれまでとは比べ物にならないほど安い給料で馬車馬のように働かされ、それまで見向きもされなかった公務員募集に大勢が殺到し、それでも働き口のない学生は就職するにも困って、「旧世界を脱構築せよ!」とヒッピー思想にとりつかれ、インドに行ったり、北海道に行ったり、「ゲーデルエッシャー、バッハ」を読み漁って、自分探しをしはじめたのである。
 また、どこかの破滅型カルトが社会に対抗すべく理論武装に留まらず、本当に武装してしまい、まるでソ連抑圧下のアフガニスタンアメリカ介入に反対する過激派イスラームのような活動を始めようとするのもこの時代である。
 そういえば、この連中に命を狙われたことを未だに自慢げに語るどこかの漫画家もいるが、それはともかく、世界は絶望に包まれたかに見えた。


 一方、そんなシチめんどくせーゴタゴタをよそに、子ども達は漫画に続く新しいサブカルチャーを楽しんでいた。
 ゲームである。
 ファミコンの登場以降、ムーアの法則よろしく急速に発達し、洗練化されて進化をとげたこのメディアは、もはや全国の子どもたちの心を鷲掴みにしていた。
 そして、90年代こそはその暗い世相、様々な渾沌に対して猛烈に反発するように、ゲームがその文化的経済的に、一つの頂点に達しようとしていた時代である。
 FF7によって決定的なシェアを獲得したプレイステーションと、バーチャ擁するセガサターンゼルダ、マリオを掲げるニンテンドー64。PC-FXについては黙っていろ。
 ……そろそろこういうシニカルな論調には飽きてきたので、もう止めます。


 えー、要するに90年代のキーワードは これはもう「ゲーム」が絶対的なキーワードじゃないかなーという話です。*1
 ゲームはこの頃になるとすっかり男の子のための遊びじゃなく、女の子も関わってきていて、だから、この当時のRPG主人公というのは、(両性の)プレイヤーの意思のゆらぎを抱え込んでしまっていてるので、「個性があるくせに無個性」という去勢されたキャラクターだったりします。
 だから、この時代の主人公像を語るのが難しいんですよね。強いて言えば、バブル崩壊のあおりで生じた罪の意識、「もうオレはダメだ、ダメなんだー!」と負の世界に突っ走るヘタレ属性とかかな。作者の、キャラクターに対するいじめが露悪的になったっていうのもあるし。
 後、ここから反省したかたちで生まれた90年代最大の遺産の「二面性」キャラが、かの偉大なりし「月姫」の「遠野志貴」です。彼なんかは、二面性を加味することで、「無個性なくせに個性的」という発想の逆転をしているのでそこが目新しく映ってウケたんだと思います。


 まあ、この90年代の主人公というのは、プレイヤーのキャラの行動への追認によって、そこにフラットな共感を呼ぶことと目指したものだったんじゃないでしょうか。*2
 余談ですが、この時代以降の作品に「倫理的危機感」などといった違和感を持つひとたちは、恐らくこのゲーム的フラットな経験を共有できないひとたちだと思います。
 純国産RPGのように、「洗練された娯楽性」がいまいち肌に合わないというか、まあ、悪く言っちゃうと、「適度に痛めつけられるけど、死んだりしません。リスクもあんまり負いません。誘導に従って正しい道を辿っていけば、ちゃんとゴールできます」という価値観をいまいち理解できないというか。
 「現実ってそんなもんじゃねーだろ! リアリティがない。ありえねー!」と言って、劇中のルールみたいなのを丸呑みにしないのは、普通に考えれば、冷めたオタクの視点としてまったく正しいことなんですが、しかし、今の十代にわざわざWIZをやらせるのもどうかと思うしなあ……

 
 ……で、「ゲーム」の話に戻しますが、これはもう今もあちこちが引きずってる感覚です。
 特にスクウェアエニックスなんかのゲーム漫画にはよく見られる傾向の気がしますが、例えば、ほそっこい腕をしていて大剣をブンまわすキャラクタがよくいますけど、これなんかは「見かけはともかく、パラメータでそうなってんじゃん!」という発想から来ているいい例だと思います。罪深きはヒッキー……じゃなくて、タッキーフェイスのクラウドか。
  

 80年代と現在との大きな対比として、間に挟まった90年代をなんだか語りにくいのは、まだ90年代が終わって日が浅いこともあるし、当時は間違いなく日本が色々とドツボにハマッていた頃だから、あの頃オレらはアホでした。臭いものには蓋、という心理が働いているからかも。 
 というのも、90年代というのは、「戦後最大のつまづき」つーよりかは、経済的「敗戦」だと僕は捉えているんで、戦後処理に追われている、賠償に追われている現状では、語るどころじゃない、と思ったりするからです。僕は幸いにもそういう憂いに逢わずにすんだんですが、現代において、父親が職を失うっていう経験は、戦争で父親を失うのと同義だと思うんですよね。

 
 だから、「90年代生まれのオタク」というのは、もしかしたら「オタク第四世代」なんてものじゃなくて、まったく別の「○○○第一世代」と捉えるほうが気楽じゃないかな。
 この○○○に入る言葉はまだちょっと思いついていない*3し、従来の「オタク」とも当然かぶる部分があるんですが、なにかこう、またそれとは別のような気がするんですよね。


 それは別に「ライトなオタクがダメ! あいつらはオタクじゃねえ!」とかそういうことではなくて、擬似体験を共感して、共有する世代*4と、色んな要素を踏まえて相対化して作品を語る世代とのギャップというか。*5
 まあ、この辺りは、後、十年は経ってみないと分からない部分でしょうか。そういえば、ジャン=リュック・ナンシーという哲学者がものすごくいいことを言っているので、以下引用。

大切なのは異郷化を恐れないことだ。あれもこれも失われたと嘆いて昔を美化する人々は、その時代の人間が平気で残酷なことをし、暮らしが貧しくつらいものだったことを忘れている。(5月22日付け 朝日新聞夕刊より。http://d.hatena.ne.jp/kagami/20060524#p1から)

 
 ……引用すると話が終わっちゃうから、どうも苦手だなあ。
 後、何を話そう……。


 ああ、そうだ。
 前日に頂いたコメントの中で「X-men的なテンションに立ち戻る」という指摘がありましたが、それはまったくその通りで、「マイノリティとして抑圧されるミュータントたち」を「セカイから弾かれたボク」と「それでもセカイを愛するボク」の対立構図に変化するような気がします。
 マグニートとプロフェッサーXよりさらにラジカルに相克の関係を描き出すというか。
 例えば、「世の中はだいたいキレイだけど、きたない部分もあってそれは許せない!」「世の中はきたないけど、でもキレイな部分もあって、そこを守りたい」だとか。
 この関係の利点は、基本的に「それってどっちもオレってことじゃん!」と開き直れれば、致命的な人格乖離には至らない、従って致命的な関係に陥ることがないと思うわけです。


 それから、スポ根ブームに関しては、なんとなく「ストッパー毒島」と「おおきく振りかぶって」が一つの試金石になるかな、と思います。
 スポ根における「特訓」がなぜ崩れてしまったかというと、「頑張れば、絶対に結果が出る!」という前提が崩れてしまった現代でそれが難しいからで、だから、「根性」の代わりに科学的根拠を主要元素として押さえれば、しばらくはどんなムチャでも通りそうな気がします。
 それは、科学によって培われた客観主義が「根性」といった精神論よりもよほど真実に近づく方法だという前提が今や我々にはあるからです。
 よって、「科学的に証明できれば」マイナスイオンだなんだと一緒で、リクツではなく感情として納得できるので、そこにスポ根の復活のキーがあるような気もします。

 

*1:この頃、すでにマーケット的な要素がサブカルチャーに大量に流れ込んでいて、中でもゲームはその作品性だけではなく、ブランドを中核に据えたマーケットコントロールが重視されていた。旧・スクウェアの売り方なんかがその代表(多分)。ちなみに、このやり方を最大級に生かした天才的アニメーション作品が、言わずと知れた京都アニメーション製作『涼宮ハルヒの憂鬱』。ついでに言ってしまうと、個人的な見解では、ハルヒは、パッケージ製品として、『新世紀エヴァンゲリオン』以来の極北であると思う。

*2:これは、現在のネット界隈において上流から下流へと流れていく情報フローを漫然と浴び続けるユーザーの心境と似ているかな?

*3:あえて言うならヘイメン、かな。なんとなく

*4:電車男世代か? うーん……

*5:きっとこれは「世代」というだけでひとくくりにするべき問題ではない気もするなあ。せかちゅーや電車男なんかと根っこが一緒のような気がする