いかにして三次元は二次元萌えに挑むのか?

  • 前書き

 二次元萌えとは、しばしば現代日本人の一部にある精神病巣といわれながらもいまだ療法が確立されていない症状であることは言うまでもないわけですが、この症状を克服させるために多くの正常人たちは以下のような文言を弄します。
「ほらほら、こっちにいやなげんじつがあるよ」
 正直、いじめ問題における「体を鍛えなさい(CV:金八先生)」ソリューションと一緒で、こういう現状認知のアプローチには、誰が従うんだろうか? と懐疑的なんですが、まあ、別に僕ら社会派でもなんでもないので、教育やら政治の諸問題にはいたく不熱心な人間であることを心得ていただいたうえで、三次元は二次元を打倒しうるか? という話。
 

  • 大筋

 
 のっけからたとえ話になって恐縮ですが、例えばの話をすると、あなたの目の前に、アニメとかゲームとかのコスプレをした女性がいます。さて、萌えますか? 萌えませんか?
 僕個人に限れば、ぜんぜっん萌えないわけです。これっぽっちも。
 知り合いの中にはコスプレに対して、好ましい立場のやつもいますが、左脳の直感に従えば、これに関してはまったく意見は合いません。萌えねェんだよ! ボケ! あ、これはコスプレイヤー自体に劣情を催すかどうか、とか、コスプレ行為に否定的とは、また別次元の話です。やりたい人の趣味を否定するような無粋は嫌いですし、容姿の整った異性とヤリたいのは真理ですので。 


 この精神状態を分析すると、わりかし物事に距離を置きたがる個人性相対主義者であるところのオタクとしての僕にとって「萌え」という概念そのものが「ウソ」で「虚構」で「作り物」なわけです。
 *1
 で、当然ですが「萌え」にも優劣があります。僕の個人的嗜好を詳らかにする気は毛頭ありませんが、こと「かわいいおんにゃのこ」に限ってセル画とコスプレとを秤にかければ、セル画に軍配があがります。(まあ、萌えキャラもアイドルもそもそも興味ないので、一般原則ではないかもしれませんが)。んで、なにゆえにコスプレが劣るか、というと、要するに野暮い、ということに尽きる。以下、理由を箇条書き。

  1. 立体化するとほとんど衣装がアレ。ていうか、異世界
  2. そういうものに衣装栄えする女の子を見たことがない。そもそも、その衣装に向けて徹底的にカスタマイズしてるキャラデザに勝てるわけがない。メイド服を着たエマには萌えるけど、エマのコスプレには萌えない。
  3. 基本的にドレスなんかの華美なデザインよりふつーに実用的な服のほうが好き。
  4. 所詮、我々が生きるのは二十一世紀の日本です。

 
 前提になるのは、結局、「ウソをウソと〜」の原則なんですよね。萌えってウソだから、写実的な部分がいらない(これを逆手にとって、キャラを写実的にすることでリアリティを加味する手法もありますが)。だから、現実の女の子が萌えキャラを演じても、まず「現実の〜」が萌えコードに抵触する。だから、「萌え」ない。という仕組み。


 じゃあ、今度は三次元が「萌え」るためにはどうすればいいのか? というと、要するにその三次元も「ウソ」であるということがスムーズにインプットできればオッケーじゃないでしょうか。
 またしても個人的な話になりますが、「萌え」に近い体験をした実写作品は、「アイ・アム・サム」のルーシー(だったかな?)。ダメな父親を引っ張っていく健気な娘っ子。あ、後、「レオン」の時のナタリー・ポートマン
 ……はい、そこー。ロリコンとか、言わない。
 違いますよー。オレは年上好きです。こないだ設定資料集を読んだ「群青の空を越えて」だとフィー教官か一条貴子しかありえないぐらいです。あれは良い年上成分を補給させてもらった良作エロゲなので、オススメしときます。
 閑話休題


 さて、三次元、つまり現実の女性が萌えるためにはあるプロセスが必要になります。すなわち、「現実の女性でなくならせる」という作業です。*2
 然るに先述した実写作品における萌え体験を引き合いにすれば、外国人で、年かさの低い少女であることが類型的な要素です。
 いずれも、典型的日本男子たる僕にはまず縁のない存在です。つまり、現実的経験値が非常に少ないのでリアルとの整合を考えることがなく「現実」と「虚構」との折衝も少なく、「萌え」るという順序。


 また、身近な、よく見知った異性に萌える、という経験がありますが、これは恐らく、普段の言動からかけ離れた行動によってギャップが生じ、一時的に現実から飛躍することに由来するのではないでしょうか。その瞬間、目撃者の萌え回路に火が灯り、それまでの経験のなかから類型的な「萌え」要素を抽出し、目の前の異性に適合させ、快楽成分が分泌される、という具合に。
 

 これが萌えという倒錯的な心理の面白いところで、二次元、すなわち虚構のキャラクタの場合、虚構であるがゆえに、「萌え」を前提抜きで語れます。
「あのキャラは萌えか? 萌えじゃないか?」
 この半ばジャーゴンじみたやりとりは、それを為すものたちの経験値の問題であり、また、どんな女性の、どんな振る舞いが心地よいと感じるかは、萌え回路の形成とそこから類型を読み取れるセンスが問われる、ということでしょう。

 

 

*1:補足しておくと、この場で述べている「萌え」とはかなり狭義的になります。「ウソ」で「虚構」で「作り物」なので、棚に並べて、飾って、悦に浸りたい心理ぐらいの意味です

*2:ここでの「現実の異性」とは、「萌えキャラ」が現実のそれより優れた人物であることを逆説的に捉えて、「ファンタジーとしての異性」に比べて劣っているぐらいにしておきます。厳密な表現ではないですが、ニュアンスとして理解してくれれば十分です