「マルドゥック・ヴェロシティ(著:冲方丁)」を読む。


 いやー、それにしても今年は豊作でした。この二十数年で一番、幸福な読書期間を送らせてもらえたんじゃないかな。
 そして、この作品はそんな幸福な季節の締めくくりとして相応しい作品でした。

  • 感想(以下、ネタバレ)


 「アメリカ文学界の狂犬」などとなんともステキなあだ名を持っているジェイムス・エルロイの文体のような文章がまずおもしろい。
 エルロイ流の体言止めを連発する破綻寸前の文章が、物語の「すでに導かれた危険な結末」と見事に調和している。
 これはサイバーパンクのふわふわした世界をしっかりと地に根ざさせる作用も持っていて、前作「マルドゥック・スクランブル」において、舞台となるマルドゥック市がいかにもサイバーパンクな泥まみれの電子の要塞であるかのような錯覚をしばしば感じたものだけど、今作では同じ市がニューヨークやLA、あるいはシンガポールのようなこの世の延長線上に位置しているように思えた。いやはや文章とは偉大なもんである。


 作者はあとがきにおいて「特殊技能をもった集団が戦うエンターティメントを書きたかった」と述べているけど、そうなると山田風太郎の「甲賀忍法帖」を思い起こさざるをえず、また09の準・警察=司法活動は士郎正宗の「アップルシード」に始まる未来警察ドラマのデッドコピーになるんじゃないか、という(余計な)危惧を覚えさせた。
 

 事実、これらを下地にしている可能性はおおいにあって、劇中で描かれる大きな物語とは、マルドゥックという一つの社会における暗部、ひらたくいえば、権力者同士の醜悪な内ゲバの様相であり、こうした作者の「統治」へのシニカルな視点は「甲賀忍法帖」に見られた徳川一族の政治闘争で「権力に無駄に消費される忍者=若者=青春」にも見られるし、「アップルシード」における行政府と立法院との対立でも見られた*1
 そして、その視点の許、「権力」を下衆な悪役として戯画することの正誤はここでは問題にしないが、この作品においておもしろくなってくるのは下衆な悪役にキャラクターとして同情の入り込む余地を認めていないことで、「有用性の証明」をするのは常に「弱者」であって、「強者」ではないのだ*2
 この試される立場にいるものが試す側に報いを与えることによって、作品が読者への有用性を証明され、物語が閉じる。市のモニュメント「天国の階段」が象徴するのは、階段の踊り場であぐらを掻いてニヤニヤ下を見下ろす人間を引き摺り下ろすカタルシスであり、それはつまり作者の社会への殺意の表れなのかもしれない。



 

*1:あるいは、「攻殻機動隊」でもいい

*2:それは物語終盤において対峙する敵グループにも同情の余地が認められることからも明らかであろう