その消費の仕方/スタンス
- 自分のフィクションに対する姿勢
- まず感想ありき。
- 批評理論はざっと追いかけた程度。(「唯野教授」から始まって、「文学とは何か」なんかの網羅的な入門書を7、8冊読んだ)
- スタンスとしてはふつーの消費と精読の中間ぐらい。そんなに深く入っていきたくないけど、浅瀬でパチャパチャやるには物足らない。腰ぐらいの深さでゆるゆる泳ぎたい。
- でも、時々ちょっと冒険したくなるお年頃なので、深く潜ろうとする。
- 肺が圧迫されて溺れそうな感じがすると、耐えられなくなって、浅瀬に上がる。
- 「もー、そんなトシじゃねーよ」と笑いながら、ビールを飲む。
- そのうち、酔っ払った勢いで再びはしゃぎ始める。
- ぐったりする。
こんな感じ。
一コマ一文を凝視して、その数〜千倍の情報を引き出すには、恐らくオレには業が足らない。
業=体質とか環境とか諸々のどうにもならなかった/フィクションに耽溺するしかなかった事情。
しかし、一度その深さのオモシロサを知ってしまったからには、浅瀬では我慢ならない。
- この認識において、ケータイ文学は浅瀬も浅瀬。砂遊びというカテゴリ。
- なので、ケータイ文学をあんまり貶めたくはない。なぜなら砂遊びを楽しむギャルの姿はそれでそれで悪くない光景だから。
- それに、砂遊びをするギャルを「年相応の遊び方をしなさい」と〝お説教〟したら、彼女らがナンパや周りを省みないボード遊びをし始めないという保障はない。なら、砂遊び結構ではないか。コストも低いし、砂遊びで育む情操もあるのでは?
ところで、めちゃくちゃ深いところにいく人が羨ましいか、というとそうでもない。
- 「命とかヤバクね?」「死んだらどーすんの?」と酸素供給や立つ場がないことへの生物的恐怖。
- 後、たまにダイバー同士が海中で足の引っ張り合いをしている姿を目撃すると「プロレスはちょっとなー」と思う。
- サブカルとかマスコミ辺りの「オタク的嗜好」への挑発的スタンドプレイ
- ちょっと以前までムカついてムカついて仕方がなかったけど、近頃はどうでもよくなった。
- なんでか?
最近は割と全方位的になりつつある(と思う)。なんにせよ、いい傾向じゃないかしら。海は広いぜよ。