「膚の下」(著:神林長平) 「冬の巨人」(著・古橋秀之)を読む。

  • 膚の下

 本編が面白かったのは当然ですが、笠井潔の解説がすんなり入ってきたことに驚きですよ。僕のなかで笠井潔(とその周辺)って「何を語らせても、笠井フィールドの話しかしない」という認識だったのですが、これが教養小説で、かつ二十一世の「人間の時代」が回復され(あるいは変容され)た物語であるというのはものすごく理解しやすかった。まあ、単純にテリトリーにマッチしてただけなのかもしれませんけど。
 確かに、この物語はロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」のSF版と読み替えることができて、主人公であるアートルーパー=人造人間、慧慈は「魂の独立」を訴えて、自分に出来る限りのことをしようとして、結局、自分を取り巻く社会に対して自立を宣言する若者です。なにより、教養小説でかつSFとして機能するためのガジェットが美しい。
 人間←→ロボットの対立は、解説にあるように階級闘争という社会的意識から、オリジナル/コピー問題=内省的世界にいたったのですが、「膚の下」では人間←→ロボットとは必ずしも対立しない。人間もロボットもすでにそれぞれに内包されている要素で、つまり、人間は自らに似せた人形をつくるのであり、ロボットは人間に似せられているが決定的に違うという存在であることから始まっている。
 そこで描かれるのは、マンマシンインターフェースの微妙な相違によって、それまでの閉塞した社会では決定的に変わらなかった(ように見える)ものが、実は万化していくことが明らかにされていき、それゆえに「私」は社会のなかで生きていて、時として「運」によって、社会に目に見える変化を及ぼせるのだ、ということで、教養小説としては未知であるように感じました。


 あと、アミシャダイが美少女変換されて困りました。中盤辺りでの慧慈とのやりとりはカンペキに長門キョンですよ。とすると、「涼宮ハルヒの憂鬱」はキョンが造物主に成り代わろうとする物語だったのか! なるほど。じゃあ、ハルヒはマギラ少佐か。もしくは人間になりたい劣等コンプレックス持ちの人造人間=ニュートリシャスモデルの晋慧で、古泉とみくるはインテジャーモデルのジェイとエムだ!

 面白かったです。すらすら読める。一時間ぐらいで読了。やはりライトノベルはいいなあ、癒される。
 いやー、ほんとジュブナイルしてますね。驚きました。なんか僕の中では「古橋秀之=血と臓物を捧げるマモノのようなライトノベル作家」というイメージだったので、最初、びっくりするほど健全な(古典的とさえいっていい)物語が展開された瞬間、「フルハシくん、君が何を言っているか分からないよ、フルハシくん!」と恐慌状態のシンジくんのような気分になりました。「まあ、きっと後半辺りからマッドさが忍び寄ってきて大変なことになるんだろう」とか。まあ、結局、そんなこともなく、無事、着陸したんですが、なにかしら釈然としないものを抱え込む破目に。すごくいい話だったのに、おかしいなあ。
 しかし、みんな街壊すの好きだなあ。きっとライトノベル業界では「街ー社会」という公式が成立していて、もう一段高いところにある社会→セカイを意識しながらも、本当に世界を壊すほどのスケールは描きにくいんだろうなあ。書くにはジュブナイルというジャンルそのものが多分、不適当なのかも。
 「冬の巨人」では劇中に出てくる大人たちの陰謀論的な、それこそ厨房センスちっくなウソくささが薄れてるんだけど、やっぱりどこかで「オトナなんてウソツキさ」というそっけなさがあって、そこが僕がライトノベルを読めなくなってきている要因なのかも。*1
 なんつーか、カイシャ的ウソツキがいないのがどうしても気になるんですよね。建前がすっとばされて「気に食わないことがあっても、ま、やっていこーや」という緩衝材が少ないというか。本音でしか物語が語られてない違和感といいますか。
 もっとも全体的に小ぶりなツクリの作品なので、そこまでねっとり書かれたら、それはそれで困ったのかもしれません。焦点があくまでも主人公オーリャの「街から離れない冒険譚」であるなら、そのためのガジェットとして十分に機能していたと思います。なんにせよ、いい作品でした。





 
 

*1:ヤングガン・カルナバル」ぐらいぶっ飛んでるとかえって清清しいんですけど