コードギアス、契約関係、家族と系譜とその踏破について。

※予定稿

1、コード(規範、記号、法則:あらかじめの定め)とギアス(強制、集合歯車:定めを繰り返す、強化するもの)の組み合わせ。

 コードギアス 反逆のルルーシュとはまず契約の物語である。
 王の力を得る主人公ルルーシュとC.Cの間柄。並びにギアス保持者全般にある太母C.Cとの契約がすべての動因。
 また、神聖ブリタリア帝国に根ざす主従関係。帝国主義、拡張主義を統制するための植民地の身分制度など世界背景において、契約のための下地が存在している。(そのコントラストとして、ナナリーとルルーシュの慎ましい生活ととぼけて平等めいた学園風景が装置として存在している)
 契約とは、ある条件下において、階差のある当事者たちの状況を一定に落とし込む処理構造。
 EX.コードギアス第1話プロローグにおいて、賭チェスに挑むルルーシュ。衆目の前にして、本来なら不利な状況に追い込みうる立場にある対手と「契約」を結び、フラットな状況にてチェス盤の前に立つ。実に示唆的。
 また、第1話の終盤にて、王の力に目覚めたルルーシュは、それをもって目の前にいる兵士に自殺を命じる。これもまた、本来なら階差ある状況下をフラットにしている。
 この契約には、規範が伴う。
 規範は組織化を促し、ある種の論理を展開する。これを広い枠組みで行うルルーシュ演じるゼロは自らを戦略家と見なすようになる。
 ここから展開して、なにができるのかのトライアンドエラーを行うのが、第一期コードギアスにおける黒の騎士団のマネジメントと対ブリタニア戦線。
 しかし、この時点ですでにこの「契約」の虚ろさは表現されている。
 妹ナナリーとの滑稽なほどのミスマッチである。
 ルルーシュは妹のために世界を作り替えることを望むが、視聴者=ナナリーからすると明らかにゼロ/ルルーシュの行動は初期衝動に基づくものであり、「幸福」の意味合いを取り違えている。
 ナナリーにおける幸福とはささやかなものであり、献身と感謝が中核を占める。一般的な同意を得やすい発想である。
 ゼロ/ルルーシュにおける幸福とは非常にラジカル。人心掌握や軍事活動により、抑圧から解放されることを求める好悪半ばにする活動。
 「反逆」。階差をもつ当事者たちをフラットにしようとする「契約」とは、すなわち「反逆」の象徴でもあるのだ。
 このミスマッチが広がった要因はなにか?
 ゼロは自らの扇動をもって、規範となり、それは組織を作る。その組織は「強制力」=ギアス(GEASS)、ドルイドの呪術的概念、誓約:ゲッシュ(GEASA)にも通じ、複数のかみ合う「歯車」とも言える独自の仕組みを持つに至る。
 また、ルルーシュにとって、すでにゼロとなる以前から彼はある仕組みに属していた。すなわち、アシュフォード学園であり、低度の意志決定機関である生徒会である。また、エリア11内で専横するブリタニア貴族たちと虐げられる日本人たち。これらの仕組みは彼を取り囲み、彼を突き動かして、より大きな領域へとシフトさせる動力となっていく。すなわち、彼のいう「ナナリーのために」は「みんなのために」という意味も帯びてくるのだ。
 こうして、彼は「責任」を得る。
 この責任について、自覚的になってくるのが、ユーフェミア登場以降である。
 ユーフェミアは最初から責任をもって登場する。イレブンを幸福にすること。その望みを叶えるための努力は、やがてゼロ/ルルーシュの「責任」と響き合う。ナナリーの幸福と自らの幸福の接合点となるユーフェミアの提案をついに受け入れる。
 ここで契約の仮面性について明らかにしておく。
 契約は階差ある当事者をフラットにするといった。権威や趨勢を消失させる振る舞いであり、つまり、それは顕名性を一時的に喪失させる行為ともいえる。また匿名性の獲得でもある。
 ルルーシュは仮面にてゼロとなる。しばしば劇中指摘されるように、ゼロがブリタニア人であることは知られてはならないタブーとして扱われている。
 ところで、ゼロ=ルルーシュという事実はユーフェミアには知られている。彼らは対等であり、腹蔵なく話すことができる。忌憚なく語らい、だがそれゆえに両者は決定的に破断する。顕名性が人を傷つける瞬間である。(隠された顕名性の欺瞞ゆえであるともいえるのだが、この辺りは後述する)
 スザクとルルーシュの友情もまた、第一期終盤まで持続しえたのは、ひとえにこの仮面性に守られていたためである。
 決定的な顕名による甚大なダメージを受けた結果、第一シーズンは悲劇にて幕を下ろす。
 
 そして、開幕した第二シーズンは上記の模倣を、しかし舞台は大きくして、再演することとなるが、この「契約」を第二シーズン終盤で放棄することを選ぶ。
 ※詳述予定
「契約」以後の世界。献身と、その究極=自己犠牲。

2、父性と母性の並立と世界像と青年性。

 この作品を捉えた評論の一つに、宇野常寛ゼロ年代の想像力」がある。
 「ゼロ年代の想像力」にはいくつか不満があるが、中でももっとも顕著なものは彼が書いた最新の評論である「ダークナイト」(パンドラVOL.3)においてもそうであったが、父性への考察がひどく欠けている点である。

 なぜか? 宇野の問題意識は明らかに父性にないためだと思われるが、もう一つには彼の主題が「青年」についての考察に偏っていることにある。
※以下、詳述予定
「契約」内の世界における父性および母性の象徴性。C.C=母性の象徴。共犯関係という名の自己肯定。ただし、C.Cの裏側にある希死性=恐母としてのあり方。母、マリアンヌの裏返った真の姿にも通じる。
 皇帝シャルル。父性の象徴。自己否定的であり、通過地点。「契約」=「反逆」とはここに続いている。
 彼らの幼児性について。C.Cの一時的退行と照合させつつ、「自らを高みにおいて」と息子に表されるシャルル、マリアンヌの幼さとは。両親というあまりに明らかな、暴力的とさえいえる顕名行為。大を小とするミニマム化の拒絶。
 これら親と子の相克のための「契約」。その積極的破棄以降、青年の仮面化と社会へのコミット。
 青年の周辺性、境界性、疎外性について。スザクとルルーシュの精神構造。仮面のある風景。
 異邦人であるための到達点としての自己破滅。我欲ゆえの我欲の放棄。
 悪とはなにか。

3、コードギアス以降。