ネギまとオレとお前とエローい。

 

  • 前書き(物語構造としてのネギまについてのおさらい)

 魔法先生ネギま! は言うまでもなく週刊少年マガジンに連載中の、赤松健の描く人気漫画の名である。
 ネギま! の人気の要件をこれまで培われてきたネギま研究によって簡単に羅列すると以下のようになる。


 シンプルだが愛嬌のあるキャラデザで描かれた大量の萌えキャラ。
 派手なエフェクトを駆使したダイナミックな魔法バトル。
 RPGやアクション、恋愛シミュレーションといったゲーム的な構造を持つストーリー。


 これらはどれ一つとして新奇なものではないが、それだけにクセが少ないように絶妙のバランスを保つ限り、非常に豊富なバリエーションが約束される。
 なぜならば、前述した三つは単位毎に見る限り、供給過多とされるほど巷に満ち溢れているからである。
 しかし、ネギまにおいては、それらの中に作者のオリジナリティ(=赤松健の場合は、彼の持つ鋭い流行感覚と、様々な情報の処理能力となるだろう)が注がれることで、多くの元ネタに触れていない大勢の読者を楽しませるのだ。
 また細部にまで神経をわたらせた背景の遊び(サブキャラがどこかのコマに顔を出していたり膨大な設定の断片をちらっと披露したりする)などは非常に凝ったもので、マニア心をくすぐりもする。リピート客を掴む方法をよく知っているのもまた上手い。
 

    • 牧師・ネギ

 主人公ネギの一応の目的は「魔法使いになること」であるが、その根底にあるものは父の不在というトラウマの解消となっているのには疑う余地がないだろう*1
 この場合の「父」とは単にキャラクタの血縁関係という意味だけに留まらない。主人公においてミステリアスな大存在とは、作中において事実上の全能神=ゴッドを意味する。
 なぜなら、メタ的な視座に立ったとき、作品にあるテーマとは作品全てを縛るからで、主人公ネギにとって、失われたはずの血縁関係とは絶対のものである。
 そのために、学園祭編トーナメント中にネギの父が降臨するとき、作品目的における充足、読者が求めるカタルシスは絶頂に達するのだ。

 
 一方で、ネギは父性の喪失を信じていない。彼は神の存在を信じている。*2
 だからこそ彼は、迷える子羊のメタファである女生徒たちの懺悔(トラウマ解消)を聞き、彼女らを導いていく役割を背負っている。*3
 いわば、ネギま! の主人公は神たる父の存在を信じる牧師なのだ。現に、これまでネギが関わってきた少女達の物語には、彼女らの葛藤=罪の意識が主軸におかれている。
 人外であることへの葛藤だったり、実家の伝統が縛めへの葛藤だったり、過去の忘却への葛藤だったり。
 その懺悔を引き受けるのが男であるネギの役割であり、彼の物語とは少女達の懺悔を引き受けることである。
 それは彼自らが不在した父性に近づくという意味でもある。葛藤を引き受けることで全能神の役割を代行しようとする姿は、精神的な成熟の過程をあらわしている。
 ネギが薬によってオトナになった姿がどこか達観した佇まいをしているのは、それと無関係ではあるまい。大人になった彼はもはやキリスト教における排斥対象であるエロスを抑圧して、超然とした父性を獲得しているのである。*4

    • 歌劇の歌姫、あるいはパトロンに犯される踊り子たち


 劇中に登場する少女達はエロスの権化である。彼女らはみだらな行為に耽る淫魔、あるいはその化身であり、娼婦としての役割を担っている。
 なぜならば、この「魔法先生ネギま!」は、父性なき世界において母性が跋扈する領域の物語だからである。そして、全体を取り巻く世界観が一元論であるキリスト教に支配されているため、父性が神ならば、彼女らは神に背反するという意味での魔の手先でなくてはならない。
 であるから、少女達は、その媚態の限りを尽くして神の息子を誘惑するのだ。それを突っぱねることで、ネギもまた聖職者たる試練を受けているのである。そして、神たる父性の回復が予言されているから、常にネギの高潔な倫理観が勝利を収めるのだが、悪魔もまた姦計に富んでいるため(あるいは、神の慈悲によって)にネギは彼女らを完全に排斥はできないでいる。
 これが無数の少女達が出現し、その誰とも微妙な距離を保っている劇中のジレンマの正体である。


 一方、その人間模様を俯瞰するものたちがいる。
 彼らは、この作品は劇にすぎないのだと知るものたちである。たとえ描かれるのが、どれほど高度な宗教劇であろうとも、それを演じているものが人間でしかないと捉えるアンチキリストのペシミストたちだ。
 言うまでもないが、この劇たる作品のパトロンであるオタクである。
 彼らは、恐らく倫理観など持ち合わせていない。必要ないからである。劇を劇としてしか捉えない。その背景にある意図になど気を配らない。なぜならば、彼らは神の実在などハナから問題にしていないからだ。必要なのは、そこに存在する人間=キャラクターである。
 そして、それはまったく正しい振る舞いなのだ。
 彼らは演じるものたちが有効期限つきのものであることを経験上、完全に理解している。
 そう。劇たる作品がどれほど高度な技法、演出、展開で織り成されていたとしてもやがて色あせることを知っている。それが時代の流れであると彼ら独特の冷めた視点が、了解している。
 だから、彼らは目一杯、消費する。劇たる作品がその本質においてなんら意味を持たないことを知っているから。そこには多くの製作者の抱く幻想、すなわち「もしかしたら自分の作品は後世で評価されるかもしれない」などといった感慨など微塵も存在しない。彼らはただ消費する。それが正当な行為であると自らを動機付ける。それは限りなく現実主義的な発想なのだ。


 かくして、主人公やそれを取り巻く美しい少女達は大勢のパトロンたちに犯されることとなる。彼らは急いで犯す。やがて、少女たちが色あせてしまうことを知っているからだ。だから、絶対に時期を逃さない。旬のものは旬のうちに食べてしまう。
 内省もない欲求が彼らを規定しており、これをある意味で後先を考えない行為として、一種のタナトス志向であると捉えることもできるが、それでもなお彼らは金をちらつかせて悪徳と称されるエロスを悪徳と知りながらもなお、満喫するのである。
 そして、なにより恐るべきことにこのペシミストたちの中には、作者自らが含まれていることに留意されたい。
 赤松健という人物の凄みはここにある。恐らく彼は優れた創作者であるよりも先に、非凡な消費者でもあるのだ。彼の持つ流行を捉えるセンスはここに由来するのだと思われる。
 これにより、作者と読者は、あくまでも神を信じていないものたちとして共犯意識を持っている。
 そして、同じ悪徳を共有することこそがこの作品の人気の秘訣なのではないだろうか。
 

 

*1:なぜ「父性の不在」が多くの漫画の前提となるのかは他で散々語られているからここでは問題にしないが、個人的な解釈では、十代程度の読者と三十代以上の作者という世代間格差が原因であり、今時の若者に「喪失したはずの父性の回復」を見せなくてはいけないという強迫観念からではないかと考えている

*2:これこそが現代日本を貫く共通認識である世俗的なキリスト教価値観、つまり現代社会における本来の意味での女「性」の抑圧と男子優越の性差問題の発祥点でもある。神とはあくまでも母ではなく、父でなくてはならないのだ

*3:の割には、トラウマ解消するにあたっての手段がやたらエロティックなのだがここをどう解釈したものか。まあ、世俗的なんて言葉がつくぐらいにご都合主義な価値観だからということで一つ

*4:キリスト教はエロースに毒を含ませて、堕落せしめ、娼婦(=悪徳の象徴)と変えた」とはアンチクリストゥスのニーチェの言