「フラワーオブライフ」四巻を読んで、ゼロ年代を想像する。
- 最終巻
を読んだ。おもしろかたです。
んで、
(http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20070531/1180589181)
を見た。
この作品がゼロ年代の「決断」主義なら、全然「サバイブ」してねーじゃん、と思います。「サバイブ」ってもっとシビアなんじゃねーの? という疑問。まさかヌルく楽観的に生きることを「決断」することが「サバイブ」とか云ってるのだったら、それは「ライフ」のほうが妥当なのでは? という違和感が強く浮かぶ。
僕におけるよしながふみの手触りってのはあくまでも、「西洋〜」とか「愛すべき〜」みたく「グループと個人」「コミュニティと個人」の対話/接触/折衝を描くヒトというものであって、それがすなわち「世界←→個人の直結=セカイ系」のネクストだって云われても、首を傾げざるをえない。
これじゃあ、まるで、たまたま脱オタした直後のオタクの視界に、女の子文化が飛び込んできて、「うおお、こいつは新しい!」ってはしゃいでるだけのような。
そんなバカバカしさを感じてならない。
例えばそれは、四巻P87の最後のコマに顕著。
付き合い始めたカップルがいたと思いなせえ。
男子が「君さえいれば、ダチなんていらねーよ!」と宣言したら、ところが、女子は引き気味で「や、あたしはアンタしかいないってのは困るんだけど?」って思ってるの。
……あのー、あなたがた揶揄されてますよ? すでに。
だいたい「決断」で「サバイブ」なんてのは、黒か白かしかないって言ってるも同然。
だから、アホか。
選ばなかった黒にだって白にだって、幸福な人生があるって話にならない以上、「決断」で「サバイブ」はすでに陳腐。終わりなき日常? 無粋な今日明日でも、まあまあおもしれェよ。
そもそも、ちょっと辺り見回せば、おもしれェオモチャが一杯、転がってるじゃん。
そいつを手に取らずに、目にも入らずに「ここは荒野だぁ……」って嘆いてるなら、最悪のマヌケ。魔界転生したアリストテレスとエピクロスにボコってもらえ。