実際はこうなるだろう「スカイ・クロラ」。そして果たして、オタクは決断主義の現実をどう眺めるか?

 映画化公開ということで、スカイ・クロラシリーズを通して読んでます。そうすると、ぽつぽつ浮かび上がってくる考えがあるので、ダダ書きの羅列のメモ書き。

  • スカイ・クロラは実の所、まっとうな作品になると思う。
  • 脚本家が女性であることや私生活をおおっぴらに語るぐらい、監督の安定感が増した。
  • 多分、クサナギ←→娘の関係を通して、監督は自分と娘の関係を見るのだろう。そこには育児は人形遊びではなかったイノセンスの続きが現れる。子供は同化しえない、しかし同じ人間であるとされるだろう。
  • 登場人物が事態の当事者であることが切実ではないように描かれるだろう。彼らはパトレイバー後藤隊長や南雲隊長に見られたせっぱつまった精神構造をもたない。それなりに、道なりに生きて、ただしそれでも「降りてしまう」人間と「降りない」人間の差異が描かれる。人が機械に近付いていくことがいびつではなく、一種の自然の営みであるように捉えられる。従って、実存についての悩みは少なく、自分の軌跡を振り返ることも少なく、ただ今のこの瞬間、切り取られた風景を描く絵画のように最適なレイアウトを選びぬこうとする姿が描かれるだろう。


 決断主義について

 ゼロ年代の想像力はあると思う。宇野常寛の言葉にも一理あって、彼のいうこともまた道理だ。
 ただ、宇野の語る言葉を僕がどうしても受け入れらないのは、彼のスタンスに強烈な自負の匂いがするから。乙木一史にしてもそうだが、他の言説はともかく、ゼロ年代という「今このときの時代」を表現するにあたって、「自分たちは時代の最先端をいっていて」極端な表現をすれば、「俺たちの選ばなかったモノは全部ニセモノだ!」と言いたげな陶酔が感じ取れるのが苦手だ。


 多分、ふつーに生きるひとたちは自分が選んだものに真贋の区別もなく、ただ一つを選んだらまず、その目の前にあるものを処理するだけだと思う。そして、また色んなもの、違うものを手にとる。「それだけ」しか手に取らないひとは確かに病的だし、そして宇野や乙木は「それだけ」しか手に取っていないように思われる。


 すると、彼らは「それは単に言論を波立たせるためのツールとしての挑発プレイだよ。ボクたちは石を投げ込んだだけさ」というのかもしれないが、そこに敬意はない。あるのは相手に対する嘲笑で、見くびりだ。そして、それはボクの考える「ゼロ年代の想像力」とは決定的に違う。だから、ボクは彼らの言説を信用しない。考え方の一つであると認めても、ボクには響いてこない。


 思うに、「目指すべきゼロ年代の想像力」とは自己の意義付けから始まる他人との接触と対話だ。我々は他人とは分かり合えないことを前提にして、それでも絶望しない。というよりも、基本的には無関心だ。自分のスタンスを貫く。従うべきは自分のルールだけ。そのうえで、他者と接して、張り合うことがあろうとも、敬意は示す。言葉をもって、己を尽くす。見くびりはあるべきではない。相手は尊重すべきだ。他者には他者の生き方があって、自分には自分の生き方がある。たまたま袖がすれちがうこともあるが、それでつかみ合いのケンカをはじめてはみっともないではないか。
 
 我々は不可視のルールをつくるべきなのだ。なんなら、それを「倫理」と呼んでもいいだろう。ただし、その「倫理」は道徳ではない。せいぜい、世の中を生き易くするぐらいのものだ。相手を襲ったり、自殺したりしないためのちょっとしたルール。
 我々はしばしば窮屈な世界に生きている。ただ、その窮屈さは単なる錯覚かもしれず、はたと見渡せば、もうすこし広がりをもてるのかもしれない。それが人生の豊かさってやつじゃないだろうか?
 例えば、コードギアスデスノートの主人公はせっぱつまっている。彼らの世界はどうしようもなく狭い。彼らは辺りを見回すゆとりを知らない。
 ルルーシュにしても夜神月にしても、「オレたちのルールなき世界」に対抗するために「オレのルール」を作った。だけど、そのルールは強大すぎて、彼らが得るものはルール以上のものにならない。他者に対して、「オレのルール」は「お前のルール」ではないからだ。でも、彼らがもっと周囲をきちんと知ろうとしたらどうだろう? 
 もしも、「決断主義」のネクストがあるとしたら、ボクはそこだと思う。
 そして、宇野や乙木の言わんとする「豊かな日常」もそんなところだろうと想像はつく。
 けれど、彼らもボクたちも結局、「決断」することしかできない。「決断」する現代に絶望があるとすればそこなのだ。あらゆる営みは「決断」にからめとれる限り、「豊かな日常」は訪れない。「決断」は多様性を切断する。しかし、世の中はいつだって混沌としている。「だから、面白いのだ」と言える懐の深さを持ちたいものである。

 

 ところで、宇野の「ゼロ年代の想像力」はヤンキー文化に行き着くと思う。オタクが孤立していて、なおかつ共感を求める。そこで今、あるのはインターネットの隆盛による書き殴りと、その場のノリにあわせたどんちゃん騒ぎ。コミュニティ(と呼ぶにも脆弱な共感の「広場」)での内向きな盛り上がり。我々が外部から眺めればその場に知性は感じ取れない。ただ、彼らは彼らのルールに従っていて、「空気」という不可思議な言葉に対して、頭をつかっている。バーチャルな共感は言語でコントロールされている。定例化されたやりとりの内部に飛び込めば、知性はある。オタクのヤンキー化をここで見るだろう。

 そして、宇野はここで一つの論法を持ち込むかもしれない。すなわち、「これまでの自分の挑発的プレイはその『場』を乱すことで、かえって『場』の存在を証明することだったのだ」
 この懺悔めいた表現は結局、言説のメタ化だ。単なる己の他者の見くびった態度を正当化するものでしかない。これは勿論、ボクの妄想で推測だ。
 しかし、彼の言葉がどこに届くにしろ、そんな卑怯者にだけはなってほしくないことを切に望みたいと思う。「ゼロ年代の想像力」の楽しみ方は色々ある。次回の連載も、また起こるネット界隈の論争も楽しみだ。「豊かな日常」って、案外そんな風景なのかもしれない。