ぼくらのと書けば、キーワードに引っかかる。されど、オレらの書けば、おおきく振りかぶってを思わせる。この世は不便である。

セカイ系についてこの頃、考えることのメモ。

 「キミとボク」に至る流れは、対人関係=日常のうすぼんやりさ加減。寄る辺なき有様によるという発想ありき。
 還元すれば、親子のディスコミュニケーションではないか? 早熟の「ボク」とそれを認めないオトナの対立。しかし、この構図は昔からあった。
 じゃあ、その昔、社会が常に代わり続けていることを認められないオトナたちを否定する「ボクたち」がかつて目をつけたのが、坂口安吾だったり太宰治だったり。
 で、その「ボクたち」の不満分子を叩きつけるサブカルチャーが小説だったが、「かつてのボクたち」はそれを権威化した。それに替わって現れたのが、たまたまライトノベルやマンガ、アニメだっただけ。
 じゃあ、今後三十年後、まったく新しいメディア*1が生まれたとき、「かつてのボクたち」は新たなる「ボク」にきっとこう言うのだろうか?
 もっとアニメを見なさい。マンガを読みなさい。
 
 セカイ系の「キミとボク」は本当にそうだろうか?
 
 「イリヤの空、UFOの夏」が難病モノの延長線であるという秋山瑞人の発想を照らし合わせて考えるに、そして、僕が「イリヤ〜」をセカイ系の枠組みで捉えないため、セカイ系を区別するには「他者」というものの解釈の仕方による。
 セカイ系の主人公を考えるに、彼らのよりどころとは「キミ」である。社会のうすぼんやりとしたところをカヴァーするため、寄る辺を「キミ」に選ぶ。「キミ」を通してでしか、「セカイ」がありえない。リリカルな構造。そういった意味で「破壊魔定光」をヒロイン、神代やよいの視点から見るとセカイ系に直結する。神代やよいは己の存在定義の一切を主人公に捧げている分かりやすい例示。ただし、「破壊魔定光」も「イリヤ〜」と同じくセカイ系ではない。なぜなら、サダミツも浅羽も「想像力」を持つため。彼らは社会とのせめぎあいを知っている。ただし、後期「破壊魔」は不思議な構造をとる。サダミツはヒロインのために世界の崩壊も辞さない態度を見せるようになる。一方、ヒロインのほうがそんなサダミツをいさめるようになる。最終的には宇宙もヒロインも両方、助けるスタンスに落ち着くが、そこまでのブレた道筋がセカイ系から外れている。一方、「イリヤ〜」の主人公、浅羽は最終的な段階で「キミかセカイか」の選択肢で「キミ」を選び、しかし、「キミ」による拒絶で挫折する。
 
 以上から見える、僕の描くセカイ系の奇怪な点。
 「キミとボク」がセカイの全景である。「キミかセカイか」は対立する。しかし、「キミはセカイの前景」だったはず。奇怪なねじれがある。セカイ系の風景を過小評価しすぎか? それにこのままだと、セカイ系とは「最終兵器彼女」のような構造をもつ作品にしか適応できない。むしろ、「キミとボクのセカイ」か「キミのセカイとボクの世界」が対立していると見るべきか?

 とりあえず、主人公キャラにおける寄る辺の設定を「キミ」に選び、なおかつ主人公キャラの内面が物語進行上の多くのウェイトを占める時点で、セカイ系は成立する、としておこう。


 昔の親子のディスコミュニケーションのカタチが変わったのかもしれない。
 親の権威が失われたのが現代日本とするなら、かつて親に権威があったのが今から昔の「かつてのボクたち」の時代(二十年前ぐらい?)。だから、ロックや日米安保の反抗する若者と無気力な若者がいた? 「権威」が滅び去ったあと、反抗も滅び、残ったのが無気力な若者たち。その延長線上が、無力な「ボク」。しかし、「ボク」は唯人ではないという発想はいつの時代にもある。
 よって、ありきたりの終焉を拒絶する姿勢が、どこまでも甘えた姿勢である「他者による気まぐれな死」を生み、寄る辺として見出された「キミ」による世界の終わりを生んだ。ギャルゲーでしばしば親が消滅しているか、あくまでもトリックスターでしかないことにも繋がるのかも。
 この姿勢に気骨云々を問うなら、ハナから反抗を達成する予定もなかった「かつてのボクたち」こそ糾弾されるべきかもしれない。一方で、「今の若い子供たちに説教してもムダだ」という諦めや不熱心さ、または徒労感は、「かつてのボクたち」もそうだったという悔恨による緩やかな負の連鎖に基づくのかもしれない。
 では、「キミとボク」はどんな子供を生むのだろう? それとも、世界の果てとは実はもう訪れているのかもしれない。だからこその晩婚少子化なのだろうか?

*1:思いつくのは、2chと動画共有の行き着く先である共感的体感的なインスタントメディア